私を前からご存知の方はお見通しだと思いますが(笑)
いきなりシビアなお仕事やり遂げてしまいました(笑)
元々、ヘタレで泣き虫。争い事怖くて仕方ない。でも逃げ足遅いから人生の大変な事からも逃げ遅れ(笑)
秋分の少し前、八月の終わりから九月にかけて、から、冬至を少し過ぎた頃、節分くらいまで、
しっかりと様子見なんですよね~、実は。
だから受験も本当は推薦が負担が無いんです。けれども、親は強くなって欲しかったようで、私は自分に鞭をふり、期待に応えて来ました。
不仲の両親の、どちらともが共通して喜ぶ事が、『精神論』『根性論』『頑張り』など、よく聞くお相撲さんの昇進の際の『不撓不屈の精神』が大好きなんですよね。
具体的には貧乏でも、親戚に勉学が出来る人がいなくても、塾に行かなくても、昔でいう国立の一期校に入らなければならなかった。(※旧五帝大=北大、東大、京大、阪大、九大、のこと。七帝大ではなく両親は五帝大を望みました。)
幸い、公立高校が優秀な大阪に住み、進学校に行きました。この時点で両親の体験していない進路でした。
ですので、進路デザイン、今でいうキャリアが全く出来ないままに、理想だけを言う境遇になっていきました。
結論から言うと、お相撲さんなら昔の千代の富士関が理想でしょうし、例えば学者なら優秀で養子に出された湯川秀樹博士とかになってもらいたかったのだと思います。
思うのは勝手ですが、具体性も現実味も無い、デザインも設計も傾向と対策も無いまま『当たって砕けろ』と放り出し、出来なければ人間として何の価値もない、と家族内で無視されたり粗末な扱いを受けました。
弟にはそんな事はありませんでした。羨ましいというより、不可思議不可解でした。
男尊女卑が根底に潜在的にあったのだと思います。
自分達の理想通りの容姿に生まれて来なかった娘。これは嫁には行けないだろう、もらい手は無いだろう、と育てたようです。
それにしては理想が的外れ過ぎました。
もう、済んだ話ですが(笑)
親戚内で競争してたんですね、たぶん。いとこ同士だけれど、家だけ転勤族だったので、あまり交流が無かったのですが、特に母方が連絡を取り合って影響を受け合って、いつの間にか競争にまきこまれていました。
ヘタレで泣き虫で争い事が怖くて仕方ない私が、です(笑)
この刷り込まれたベクトルはなかなか独りで修正できたもんじゃありませんでした。
お陰で女子なのに親戚で一番高学歴の、世間様からすると鼻持ちならないと映る女性に仕上がってしまいました。
ま、寂しがり屋の両親でもありましたから、そうするといき遅れていつまでも一緒に暮らせると考えてもいたのだと思いますが、
父の晩年は『独りでも私がしっかりする』という母ではなく、直ぐに値を上げて周りに助けを求める人だったので、最期も親戚の思うような運びになってしまいました。
そういう意味では、捻れで育って良かったです。
私の心身が壊れても、私の子ども達や、親を選べない不遇な子ども達の心身が健やかに向かってくれるのなら。
その『想い』があるから私は生きて頑張るのだと思います。両親に迎合したのも、両親が子どもの時に受けたであろう心の傷の絆創膏になりたかったんです。子どもながらに早くにストイックに気づいていました。
ただ私の周りはどれだけの大人や人がいても、この『想い』自体の存在にさえ気づいていないようでした(笑)
そう、人生かけて、『片想い』なんです(笑)
アホでしょ(笑)
つける薬無いんです(笑)