夕暮れ時に、仕事がOFFのお嬢様と息子君と連れだって外出。


なんのことない日用品の補充に。


彼女はいつもの通り、自分の享楽的な事を最優先にする。


いつからそんな事が恒常的になってしまったんだろう。


確かに私の都合で振り回したかもしれない。


父親の仕事の都合で転居や転校はOKでも、母親のそれはどうしてひとでなしのように思われなきゃならないんだろう。


小学三年生の時、急に大学院進学のために、ここに来た。


彼女はすでに二年と少し前の小学校で過ごしていたから、ここに来て、泣いて学校に行けなかった。


毎日げた箱で泣く。私も生きて行くために、と、心で泣いた。


研究室と小学校と小児科の最短距離の物件を探した。


それでも送迎を欠かさず行って、何かあればかけつけて、学童での問題でもかけつけた。


彼女の誤解を解きたかった。彼女のせいでない事で非難される事をどうしても防ぎたかった。


親に預けて専念出来る人、独身の学生、本当に羨ましかったし、焦った。


もう父は亡くなっていたから、頼るところも帰るところも無かった。


ずっとずっと孤軍奮闘してきた。


その中で、娘はこうなってしまった、というのか。


なにかあると人のせいにし、精神的に自立できない。


学問的な分離不安なのは解ってる。ただ、そう診断されるだけじゃなくて、


そうならば『どうしたらよい方向に向かうのか』。


・・・誰も教えてなどくれない。


ずっとずっと自分で考えて自分で苦しんで自分で答えを出して来た。


私自身も、もういっぱいいっぱいだ。


下の子の事もある。彼の見本になって貰いたい。それ以前に、


自分が自分で生きる事を後悔しないためには、


どういう言動をして生きるのか、考え抜いて欲しい。


そのための耐性ももうそろそろ身につけて欲しい。


リソースが無い状況としては、これほど甘えさせた事は無い。


やろうとしない。できないらしい。


息子は言葉を間違う。でも、どこまでが間違えで、どこからが確信的なのか解らない。


『利用出来るうちはとことん利用する』と言われた。


別段、子ども達に理解してもらおうとは思っていない。


誤解無きように敢えて書くと、理解してくれるものは有難いが、


理解して貰えないからといって、幼稚にすねたりするつもりは無い、という意味だ。


子ども達は、私が望んで、今生に来てもらっただけで、


今の環境も子ども達が望んで、力をつけて、今の状況にしたんじゃない。


そんな苦しい中で、他人を思いやる余裕がどこにあるというのか。


頭では解っている。解っているけれど、


『利用』の存在として、認知していたんだ、と思うと、


別段それでもいいけれど、


私も、自分で望んで生まれて来たのではなく、


気付けば生まれていて、気付けばあの環境で、気付けばあの親で、


ただ、ただ、必死に頼らず生きて来ただけだ。


元の配偶者も幼稚な事しかしないから、親として頼れるだけの能力が無いと判断した。


親と言う役割から降りて貰った。


今日は、子どもと言う潜在的な私の価値の子ども達から、娘に降りてもらおうと強く思った。


言い方をもっとシンプルにすると、


尊厳に関わるような傷つけられ方をしたからだ。


ショックでこころが自ら閉じた。


自閉症だからじゃない。


閉じたんだ。


どんな事が起こっても、どんなに文句を言っても、親元から逃げられなかったあの日。


散策され、監視され、コントロールされている、日々が続いている事に気付いてしまった。


子どもという立場を武器に変えて、娘や息子は私を支配している。


人として、個として、どう成りたいのか。問うた。


凛として問うた。


声を荒げているうちは、真には憤慨していない。


私が真に耐えられない状態になった時は、心が極端に閉じる。


それは相手が何人であっても。


『それは人として、言っていいのか? 家族だからという甘えで言っていいのか?』


ずっと問うてきた。


それでも子ども達は、失言してしまった。


今は受け留められない。


フリーズしたまま。


家族というユニットを構成する個々として、どうある方が好ましいのか。


時とともに変遷する事は自然淘汰だと思っている。


いつまでも、一人で歩けない、食べられない子どもじゃない。


成長してしまう。


そう、そういう意味で、時は待ってくれない。


成長も自分の思うようには、成長してはくれない。


それでも、努力でどうにかなる部分については、努力をしている姿が人として美しい。


自分の人生を表面的なそれではなく、深層で美しく生きて欲しんだ。


いや、そうしないで、苦しくないのかい?


・・・おそらく倫理観や道徳観なのだと思う。


そういう意味の真理を私は問うので、子ども達は苦しいのかもしれない。


だから、普段は、素知らぬ顔をしている。


素知らぬ顔をしながら、親だから、多面的に観察している。


いくらなんでも、これは、という時は、ちょっとだけつつく。


何度も何度も根気よくさり気無くつつく。


でも、そのせいで、追い詰められた時に、すこぶる弱い人間になってしまったようだ。


悲しいかな、私は、とても厳しい環境に育ったので、


追い詰められると、自らが自らを乖離させて、別人格であるかなり冷静な論理的な自分が出て来て、


個になる。


悲しい技。


悲しい悲しい生きる為の技。


そうして生きて来た。


私を悲しいというなら、どうぞそう評してください。構わない。


どうせ最初からひとりだ。