①命のぎりぎりのところをずっと泳いでいたので、今日起こった練習中の事象に対して、自分の特徴(衝撃を受けると些細なものでもダメージが強くなって継続してしまう)がありつつも、踏ん張れるようにいつのまにか小さいかもしれないけれど『耐性』がついたかもしれないな、という自覚。
②有名な場合は(京大やその附属病院)、ただそれだけでカリスマ性があるのか、勝手に安堵してしまうという多くの人の想い、を流石にもう確定できた、という事。
③①に専任できた事は幸せだったかもしれない、という気付き。
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2006年11月にポッキン!!!!って折れて、仕事柄連絡は常に電子メールだったので(音声連絡は証拠が残らないので策以外はしません)、パソコンの電源を入れる事すら強張って恐怖で出来なかったんですよ。携帯も怖かったかなあ。京大病院も通院出来なくて。学校と言う学校は幼稚園からもう近くを通れなくて。夕方になって陽が沈んで人気が無くなってから、そうっとそうっと誰にもみつからないように、学校の傍を通らないように(文京地区なので、大変です。)、生きていた時期があります。
今思うと、強いストレスを感じる(恐怖)モノとは心理的な距離を置くのが認知行動のひとつなら、誰に教わることもなく、出来ていたというか、そうなってしまっていたのですけれど、人の機能というのは、そういう行動になるのだな、と振り返れるようになりました。
あれからどんどん引き籠って、大学病院は行けなくて、白衣も権威的でしたから、週に一度の民間診療所に出向する担当医について行って。そこで無秩序でありながらも権威的なモノが無い状態をどうにかこうにか過ごして。子ども達も学校に行けなくなってついて来て。社会学や教育学や心理学を専攻している学生ボランティア運営の喫茶店で飲み物を50円くらいで提供してもらって、一年と少し過ごした後、担当医が出向時期を終えるというので、のりしろの時期を作ってもらって、結局、機関ではなく人についていく事が自分が求めている事だと解って。
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私は高校の時に地元の進学校に行きました。学内の成績は芳しく無かったです。同じ様な成績を獲った人間が揃って、またその中で席次が出るのですから、数学だけは学年の首位を競えましたが、他の科目はそう簡単にも行きませんでした。それでも学内で評定4.7とか4.8とかとって有名大学に指定校推薦、つまり書類と面接だけで行ってしまう子も居ましたから、学外の人からは、その学校に通っていると言うだけで、一目置いて下さっていたように思います。
干渉されないという意味ではとても居心地が良い期間でした。けれども反対に教えてくれもしません。知識が指定校推薦を受けられる一握りの子のようにまんべんなく高い訳では無くて、得意科目だけなんだ、と言っても、「どれひとつアドバイス出来る事はない」と話を聞く前にイメージで、謙遜にも程がある・バカにしているのか、と弱い所を吐露するきっかけすらありませんでした。
そういう意味では大学(学部)は受験を失敗したので、浪人して国公立を目標にしていましたが、結局私学になりました。現役の評定でも推薦がかかる大学だったので、両親のその大学に対するイメージもありましたが、何より私が一番実力を出せなかった自分の弱さ、追い詰められなかった自分の弱さを責めました。当然両親にも申し訳ないと思いました。同時に、今はどういう評判か知りませんが、当時は「あの大学に行くのに何故○○高校なの?」というくらいの滑り止めだったのですが、数学科に拘ったので、私はそこにしかひっかからず、他の学部のイメージもあり、その大学に通っている間や当時は大学院という選択は人生にありませんでしたから、もう私の一生のレッテルはその大学に対する皆さんのイメージで固定されました。
すると、態度が豹変したのです。受け取る私もそうだったのかもしれませんが、その掌を返すような周りの反応についていけませんでした。学内でも孤立し、周囲からも孤立し、本当に辛い4年間でした。
就職しても出身大学は付いて回りました。学部や専攻で随分と実体は違うし、その人その人なのに、イメージは一緒にされました。何かあるごとに、○○大学ってそうだよね、とか言われました。それくらい皆が学歴に敏感だったのだと思います。特に一般企業では。
修士は西の国立の女子大学でした。地方なので、ゆったりした気分でいれました。周りの若い子は、地方のええ士のご息女で、平成なのに、半分くらいは「地元に戻ってする御見合いの釣り書に有利だから」という理由で親に進学を希望されての子でした。
そうして博士に進学するわけですが、この大学は全国規模だし、海外からの留学生もバンバン当り前だし、特に中国本土からの留学生は、英才教育でもう小学生の時に優秀な子どもだけ少数精鋭で育てられ、途中の成績で「あなたはアメリカの○○大学」「あなたは日本の東京大学」というように決められて、それでその対応する国に応じた言語も不自由なく覚え、少なくとも参加国語は流暢に使い分けられる事が当り前に仕込まれて留学してきます。他の国の子は国費で留学してきます。スカラーシップでも貸与ではなく特待で免除で来ます。
そう、高校どころではない、内部の競争があって、ほんの僅かな差で、天と地の差が生まれてしまうところなのに、外から見ると、「やっぱり安泰よね~」とかこれまた勝手なイメージで見られて、いくら説明しても耳を貸してもらった事さえありません。
今日の救急搬送の件の際に年配の方の「京大病院に搬送されるから大丈夫よ。ほらあの人京大の先生だから。」という、理由の無い大丈夫、と、京大の先生を知っているという自慢と言うかなんというか得体のしれない纏め方に、折れた時のこころの乖離した状態を形成する周囲は何ら変わっていないのだ、と解り、もういくらなんでもこの周りの感覚に慣れよう、って思いました。
受け容れなくても取り入れなくてもいいのです。だたそういう風潮が多数を占める事を認知しようと思いました。
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生来、珍しい事ばかりが起こる人なので、それもあって統計学は嫌いです。自分に該当した事が無いし、多くを画一化する考えには相容れる事が出来ません。ちなみにDNAでいうと人間とハエとは1%くらいの差以外は殆ど同じ配列をしているのだそうです。では殆ど一緒だからといって、人間とハエは同じだ、と言って、受け容れる人はどのくらいいるでしょう???
そう、都合のいい時に、統計を受け容れて、そうでない時に統計を受け容れない・・・つまりそのような統計というものが私の中で信頼度信憑性が低いのです。
けれど・・・人間社会は統計を採用しています。選挙でも投票数で通りますし、点数も取った方が有意。政党も選挙で勝った議員が所属している党の多い党から予算配分されます。そういう論理を「採用」しています。
いくら私は私しかいなくて、殆どの事例に当てはまらない、と言っても、法制度がそういう定理や公理を元に構築されていないのだから、相容れないのです。それでもこの世で生きて行くのですから(少なくとも未だ子どもが若すぎる)、生きるために、受け容れられなくとも認知して理解する事はしなくてはならないのだ、と、いい意味で降参しました。
ただ心はもっていかれないぞ、と。
誰が見てもぽっきり折れたのが2006年ですが、ものごころついた時からずっと疑問と言うか不可解に思っていた事でした。けれども、もう、これだけ、普通と言われる人の思考が変わらないというか、自分の思った事以外は耳を貸すなんて無い人が殆どだ、と、解ったので、もうそういうものだとして生きて行きます。
これをなんというのでしょうか・・・・割り切り・・・とはいささか違うようにも思いますが。
覚悟というかなんというか。いろんな人がいて、同じ時空間にいても、同じ衝撃に遭遇しても、これだけ違うんだ、と解ったというか。
袖すり逢ってもハグしても縁にならないものはならないんだ、と、そう認識しました。
覚めたと言うかなんというか・・・我に帰ったと言うかなんというか・・・
そんなこんなです。
(またこんな時間だわ・・・やれやれ)