一息つける状況になったのか、自分の心身の疲れに意識が全く行って無かった事も解って、ただただ身体が動かない状態・・・連休だから家事いっぱいするよぉ~♪って思ってたのに。
そうして、ことばのすれ違いというか、ことばはこころを表現もする、と思っているので、こころのすれ違いというか、そんな事がいくつかあってしまって、
感受性の高い私は、勝手にダメージ受けちゃって・・・。
今日ね、合唱団の全体練習があるのに。それまでには回復してほしいのに・・・。
ベートーベンの第九もね、ブルックナーのテデウムもね、その激情型というか、高音は凄い高音だし、乱高下する音程などに、
『これらの一体なにが民衆のこころを????』って思ってた。
ただ食わず嫌いにはなりたくない、という、これまた変梃りんな天邪鬼の私は、だからこそやってみなければわからない何かがあるんじゃないか?やってみるうちに解るんじゃないか?と思って、まずは今回第九に応募してみました。
そこで出逢ったのが京都担当の指揮者の先生。一般的にはおじいちゃんと言える年齢であると思われ、京都の練習場が出来てからはずっとその先生。
実際に練習してみて、厳しいけれど、新しい知識を入れて貰えて、その知識も先生の体験に裏付けられているから、私にとっては信憑性が高くて、
歌詞をちゃんとドイツ語発音と歌唱発音で指導して行って下さるんです。
クラシックは宗教色がついているから、荘厳な歌詞がついていますよね。でも、なぜ、それでは、その歌詞をわざわざつけるに至ったのか、
指導をしていただくと、そのうち並行して、(この歌詞をつけるに値する状況が当時あったんだ・・・)という事に気付きます。
想像をはるかに超えた、厳しい環境が当時あったのだと思います。
神にすがるしか、神をたたえるしか無くなってしまうような、辛い辛い状況が民衆にあったのだと思います。
マリア様が息子を亡くした哀しみの深さは底知れなくて、そこにパイプオルガンの音色があって、、、特にブルックナーはオルガン奏者だったので、彼の描く曲は、もしかすると、楽団と一緒になるベートーベンの第九より、
民衆に近いのかもしれない・・・・そのような事も入って来ます。
それを歌唱に表現する。ピアノの確かなタッチと並行いしているにも関わらず、声だけで音の像(時代情景や意味をも)見せる。
凄い世界だな~・・・真摯に向き合わねば、本当に申し訳ないな~、と真剣に思いまして。
合唱団は団員のボランティアで運営されていまして、ハッキリ書いてしまうと、商業性はありません。
どれだけ儲かる、とか、どれだけ売れているとか、まあプロのソリストさんたちには悲しいかなついてくる問題ですけれど、私たちはそのソリストさん達を縁の下でボランティアで支えるという事に徹底しているというか、徹底するにあたり、どのような技術をみにつけていないといけないか、などなど、名実ともに学ぶ場でもあるように思いました。
商業的でないのに人生を捧げている人が多くいるので、厳しいです。だから当然ひるみました。けれど、利己的ではなく、人を支えるためには、それに打ち克つだけの人間力がないと、何も出来ない、という事は理解出来ます。
だから、私は、弱いからこそ、通い続けたいんです。経済的にはみんなが持ちよりなので、安価に設定していただいているんだし。
自分の身体やこころを素直に楽器にする。美しく響かせて。共鳴していただけるように。
そういうこころのスイッチをしたいのです。
私は不器用なので、持ち合わせておいて、切り替え、というのは、出来なくて。
こころが乱れる対象物は、まず見極めて断捨離して、近くにない状態にしないと、影響を受けてしまうんです・・・
ゲーム機に躍起になっている息子を見るだけでダメージ受けちゃいますから・・・。
何が勝った負けた???対人で???
内省出来ない人に育ってしまったのなら、なんと悲しいことなんでしょう・・・というショックです。
めっちゃくちゃ頑張ったんですけれどね・・・これでも色々育てるのに。
こころは孤独・・・なのかもしれませんね・・・自覚がなかっただけで。
あ~・・・・ぜ~んぶわすれて、歌唱に没入したい!!!!!
こころを当時の民衆に、今だけれど同じ様な目に遭っている人に、歌唱を通じて一緒になりたい・・
それだけなのに。