不器用なので出来てもひとつなんです。。。 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

昨日のブログに和さんがコメントを下さいました。頑張っている御母さんだと言って下さって恐縮です。

でも本当にそうで、頑張って頑張って頑張りつくして努力をしないと、元々の私は大変不器用で、やっと出来てもひとつなんです。

むしろひとつでも、不器用ですから、何度も何度も段階を細かくして、ほんのちょっとの事をこなすのに、膨大な時間をかけて繰り返し練習して身につけないと、出来ないんです。

なので、シングルマザーになる決断は不安しかありませんでした。

当時、シングルマザーになるということは、物理的にひとりしかいない私だけで、パートナーの助けも、パートナーの義理の親戚の助けも、なくなってしまうということのみならず、

偏見で、実家や実家の助けもなくなって孤立してしまう事だとは解っていませんでした。

そんな事よりも元パートナーの暴力が酷くなって行き、私も頚椎がずれてしまう怪我をしましたし、生まれたばかりの息子を抱いていた状態でそうなったので、

『この人は赤子である吾子にまで暴力をふるってしまうという程に見境がなくなってしまう危険な人なんだ』と解った途端、

『ふたつの命を護らなくちゃ』というスイッチが入りました。

ただ、そのスイッチ(想い)だけでした。

上に書いたように、『ふたつの命を護る』という宇宙のように壮大な事をひとりで出来る、などという考えなど思いつくはずもなく、ただ『危険から逃げる』という事だけでした。

実家に身を寄せました。実家はもう父が病気が進行していて、入院はしていないまでも、身体は不自由になって行きました。

実家は姉さん女房で、母がふたつみっつ年上です。両親は、私がこうなのですから、不器用で努力でこなす人です。ですので、このような突発的な危険対して、術や思考は持っていませんでした。

当時、DV法律もありませんでした。ですから特に父方の親戚(男性が多いです)の家は、奥さんが相当苦労なさっていました。一旦嫁にでたら、実家は無いものだと思え、という昔の教えを純粋に守っていました。

実家には、たったひとりですが、末の弟である父がいて、やがて結婚して嫁が来るだろうから、と、伯母たちは本当に実家に帰らず辛抱したのだと思います。それこそ酷い旦那であっても。

今思うとそれくらい地位というか、女性が発言することすら、ままならない時代だったのだと思います。

それ故、実家の母も、とんでもない父だけど、離縁せずに辛抱していました。実家には後を継いだ弟がいたので、帰れなかったし、世間の目に実家が晒されるのを杞憂しての事でした。

私はシェルターに行く事を行政から勧められました。北海道だったか、東北だったか忘れました。兎にも角にも、直ぐに、かなり離れた土地に、住民票を移す以前に、実体を持って行くように指示されました。

結果は、私も実家を離れられなかったのです。特に生育上、両親を早くに亡くして寂しく生きて来た父が病気になって進行していて、離れられませんでした。

母は現実主義の人で、『家にいるなら生活費を家に入れなさい』と言いました。調停がはじまるかはじまらないか、の、まだそのような段階で、仕事を探しました。そうすると保育園も探さなければいけません。

形は実家にいるので、母が孫たちを見れるのではないか?という書類に、父が病気でその看病で手があきません、と素直に書くしかありませんでした。すると父が自分の病気を責めるんですよね・・・困りました・・・

保育園は入園すぐには子どもが馴染めないので、二週間くらいお試し期間で、短時間入所となります。当時電車をつかって小一時間かかるオフィス街(関西の一番のオフィス街ですが具体名は避けますね。実家の場所も解っちゃうし。)にパートが見つかったので、

早朝からお弁当を作り、子ども達を連れて、保育園にお願いし、通勤電車に揺られ、そうして慣れない、どちらかというと辛辣な雰囲気の職場でクタクタになって、また通勤電車に揺られ、慣れない環境に預かられてくれた吾子たちを抱いて、帰って、次の日の用意をする・・・

その繰り返しでした。

当然、実家の母は、自分の時代の自分の周りの頑強な価値観で生きていますので、一切手を出しませんでした。父はそれを不思議に思いました。

どこからも疎外されているのに、実家でもぞんざいな扱いをして、こころがもつほど人間は強くないのに、せめて孫だけでも、保育園では無く家におけないのか、と言いましたが、実際問題、母も若い頃は企業人だったのもあり、家にずっといて、誰かのケアだけで一日中終わる事に、物理的に身体が使えなかったのです。

誰しもが理想で話をしていました。

そのような日々を生きることだけで必死な時に、相手方が乱暴はアプローチをして、私達を知らない間に尾行し(友人の車を使ったので解りませんでした。人をだます事に長けている人は、その方面の発想が豊かです。)、保育園の前で拉致事件が起こりました。(大変ショッキングな内容なので割愛します。)

もう、相手に知られている実家に居られないと決断し、早急に転居しました。その時の借金は団地に入居したので、少額でしたが、サラリーマン金融に、調停と裁判費用は法テラスに借りました。(離婚成立後一年で完済しました。その後、裁判で決まった、慰謝料も養育費も一切ありませんでした。)

こうして今書いてみると、なんと『駆け引き』というか『代替』というか『ギブ・アンド・テイク』というか、『離婚しないなら金はやらなくもない』(←一緒に住んで居てもくれるかどうかは実際は解らない。)というような環境でした。

俯瞰してみると、このような概念が哀しかったのだと思います。

服が無い、食べるモノが無い、そんなところからスタートしました。実家(一般家庭の平均収入より経済水準が高い家です。)は、そのような状態にあっても、倹約というか節約というか、収入は見込んでも支出は困った実子や孫にもしない母でした。

古い知人を頼って、古着を送ってもらいました。女の子の御子さんばかりだったので、息子は女の子の服を着ていて、保育園で学年があがるにつれ、それでひやかされました。とても可愛そうな事をするしかありませんでしたが、そのような小さい、保育園というところに通っている子でも、『どうして女の子の服着ているの?変だよ!』と言う子が殆どでした。

事情をしっている保育園が、御着替えで貸してくださる保育園の服は、男の子らしい服を貸して下さいました。(ブランドもののお古が多かったです。お古を提供するのもブランドの方が贈り甲斐があったのでしょうか。)

なんだか、その配慮さえ、みじめだった事が思い出されます。

今や国のあり方は、経済やデータが主導です。それで人までも推し量かり、流行りの言葉で言うとマウンティングの指針に使われます。

それに激しく偏るので、どんな手を使っても、収入拡大の方向に動く、昔の道徳観がほぼなくなっている言動が多くなったような気がします。

某国営放送のアナウンサーでさえ、視聴してもらおうと、華美な言葉を修飾的に使うようになりましたね。お気づきでしたか?

今、振り返ると、私はいつだって、時代や世間や社会になんてついていけなかった。

流行にも乗れなかったし、イモ臭かったし、地味に生きる事さえ大変で、平均に行くまでに相当の努力をしないと寸分すら届かなかった。。。

人が気付かない小さい事に気付いて感動していたら、揶揄されて、頭がオカシイ事にされて、揶揄する人が多いから、本当に相当のダメージを受けて、今度は本当にしんどくなって、お薬が処方されて、ブレインバリアに届いて、治す?ためだと、依存的にもっていかれ。。。

いつだって、自分の人生なんて、生きて来なかった。見えない誰かのため、見えない国のため、見えない政治のため・・・・

・・・なんだ、ったんだろう、って。

生きることが大変な全てのみなさま、大変だ、って、声を上げていいように思います。

頭がいい、と、豪語している人に、どんなところがどんな風に大変だ、と言いましょうよ。

きっと素敵なアイデアを出してくれると思います。←はい、皮肉です。


自分の事しか、考えない人が、本当に増えてしまったように思います・・・




強い雨の日。



よこしま☆