感度が高いので、どうも反応してしまいます・・・

いざとなったら集中できるような訓練は出来て来たように思うのですが・・・

・・・ということは、この感度が高くて、揺れていて、右往左往している時は、瀕死の状態ではないという理解になりませんかねぇ・・・確かに、

娘が言葉通り瀕死で救急搬送されて予後数カ月の事を思ったら平和な状態だと思います。

足が地についた感覚がありませんでしたから。

ただ「無我」の状態で、その日その日を凌いたように思います。

そうでないと気がふれるような出来事でしたからね。

人に理解されるとかされないとか、考えだどうとかこうとか、

そんな事を考える余裕なんてこれっぽっちもなくて、

今日を大切に生きる、なんて事も考えられなくて、

ただただ、その瞬間瞬間、震えたままどうにかこうにか対峙していたように思います。

だから覚えているけど覚えていないというか。

そういう状態にあった事を鑑みると、

感度が高い状態を自覚できる程の余裕があるのだから、

それは本来の私ということだから、

ちょっとはあの頃より、余裕がある、という事になりませんかねぇ。

・・・そういう事にしよう。

そうしてむやみに不安にならないようにしよう。

私はどうも人の不安を吸い取ってしまう吸い取り紙のような気質らしいので(金彩工芸士の大師匠に指摘されちゃいました^^;)、

人さまのしんどさも自分があたかもそうであったかのように取り入れてしまいます。

「受け」なんですよね、あくまでも。

・・・これも私の「素」なんだから仕方なくて、解っている事は、瀕死&&緊急の状態の、あのなんとも言えない感覚の状態では無いと言う事。

臨死体験をした経験があると、身体が覚えている事なんですよ。

ただそれだけの事なんですけれどね。

それにしても、どうして、助かったのかなあ・・・私も娘も。

まだ今生でやることがあるのかなあ。

戦後70年。サバイバーズギルトに苛まれる一方で、「亡くなった人に生かされてる」というおばあちゃま。

なんだか解る気がするなあ・・・それで申し訳なさが無くなる訳ではないんだけど、

そういう事なんだよなあ・・・

あ、蝉がまた、アブラゼミになってきたよ・・・

今朝のヒグラシさんはどこに行っちゃったのかな???

今日の予報は37℃。

まだまだ蒸し暑い京都です。

浴衣・・・まだ着てもいいのかな・・・補正があるから真っ盛りの時は辛い過ぎて避けてた。

でも、夜風が変わったから。

なんだか鼓動を感じながら、勉強していた夏ばっかりだったなあ・・・

受験ってなんにせよ、夏季をどう過ごしたか、で、秋からの自分が違うから。

それは体験的に解っている事で。

だから、ナンダカンダで、息子が頑張っていると、嬉しくなる。

目先の享楽に溺れるんじゃなくて、地味だけどコツコツな夏。

それって勉学に限らず、生きる上で、大切で、素敵な事だと思うけどナミルク入りだな