本当に、情けない・・・??? | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

多分に、多感なんだと思います。


何かにつけ、刺激を受けて、それで焦ったり、憧れたり、羨ましがったりしてしまいます。


意識していなかったので、この、なんとも言えない、モヤモヤとした感覚の正体が、何者なのか、わからず、


わからないものにいつ襲われるか解らなく、そうして強いものなので、


ととっても怖くて不安だったのだと思います。


そう、この事さえ、自覚していなかったのだと思います。


(私は、日本語でありながら、わたし語で考えて、書いていると思うので、


適宜読み替えていただくと嬉しいです。)


さて、この焦りや、憧れや、羨望と、どのように距離をとったらいいのか、と思案しています。


セルフコントロールのような気もします。


今は、この三つだけを考えるとして、このうち一番怖くて不安で強いのは、焦りのような気がします。


焦燥感とも書いて来たと思います。


☆かつて出来ていた事が出来なくなった事実のうち、加齢以外の要素でそうなった事を悲観している☆


という内容の焦りのような気がします。


今、全ての音を消しています。こうしてキーパンチの音だけがしている空間に慣れたいと強く願っている自分がいます。


どうしてだろう????


やっぱり「かつて出来ていた自分を(加齢でどうしようもない部分以外は)取り戻したい」と強く願っているからだと思います。


メディアを含む、ブログやツイッターやフェイスブックなどでの、表現からは、水面下とか裏とかの努力が見えないので、形になった状態を目にしてしまいます。


するとやっぱり焦るんですよね・・・


才能もセンスも無いのに、つまりは向いてなんていないのに、ただ努力だけでここまで来たのだと思います。


人さまが10分で出来る事があるとするなら、勘所が無いから、どこからどう手をつけていいか解らないところから始まるので、人さまがやっている10分はただ呆然としているだけになります。


この時によくお叱りを受けるんですね。『どうして○○しないの!!!!』って。


このお叱りの○○で初めて(あ、○○は実現する要素のうちのひとつなんだ・・・)って知る訳です。


で、この○○からして、これまたやり方が解らない。どこにヒントがあるかも解らない。残念ながら競争論理の畑だったので、教えても貰えない・・・


となると、「もしかして、これかも!?」と思えるまでに、膨大な時間が必要のようです。


そうこうしている間に、才能もセンスも勘所もある人は、するべき事をすぐさま見つけて、ウサギのように、身軽にひょいひょいと昇り詰めてしまいます。


まだヒントさえ、見つからない状態で、その様を見せつけられると、焦らないと言う方が私に土台無理なようです。


(今は、私は、そのような時期ではないし、人さまより時間がうんとかかるんだ)と自覚していても、


軽やかな様を自慢げに見せびらかす人も多くいるので(人より速い事は自慢になるし、カッコイイという価値観が世の中にはあるようです。若くて売れる人はこれに当たります。先行価値@経済学、だと思います。)、


やっぱり辛いのだと思います。自分の素養が。


そうしていつかオジリナルなけったいなものが出来あがります。


今度は一生懸命説明しても、理解して貰えません。全くのオリジナル過ぎるのだと思います。


これまた疎外感満載で、ひとりぼっちのセミのような気分になります。


一斉に啼くタイミングを逃してしまって、季節外れに妙な啼き方をする蝉・・・


同じ木の下にいない蝉。それは最早蝉ではないような気もします。


そんなわけで、テレビなどメディアの刺激を、遮断しました。


外では、木々の葉がこすれる音がしています。


さわさわ、って言ってます。


スワヒリ語でしたっけ?(忘れちゃった☆)


さわさわ=大丈夫、と言ってもらえていると思いたいです。


研究を突然止めて、御母さんに専業しました。


子ども達のもとに駆けつけました。


大阪に高槻市(たかつき・し)というところがあります。


かつて、市長さんが、奥様の介護に専念するために、退職した事があるのを知っています。


昔、フォーククルセイダースというバンドがあったのを知っています。


はしだのりひこさん、という人がいたのを知っています。


彼も奥様が病気になってしまったので、家事育児をするために、第一線から退いたのを知っています。


華やかな表舞台には、どうしても惹かれて憧れてしまいますが、


大切な家族を想って、舞台を降りて、かつての技能を忘れかけている人さまに対しては、


私は何も思わないし、むしろ素晴らしいと思うのだけれど、


やっぱり子ども達が、このままでは、自分のせいで・・・と思ってしまうようで、


何かの形で、這いあがらないと・・・という段階に来ているようなんです。




いつだって、自分のタイミングなんて、守れるはずもなかった。



殆どの人がそうなのではないでしょうか・・・



そう思うと、なんのこっちゃない、私はマジョリティに属していて、


マイノリティの一部の華やかな人に影響を受ける事も、


それで焦る事も、


それで不安になったりする事も、


必要無いのだと、


やがてそのような境地になります・・・



そのためには、これだけの文章量が最低限必要のようです。


書きながら読むので、発信しながら自分に言い聞かせている部分もあるのだと思いました。



そう思うと、少しは、セルフコントロールできているのでしょうか・・・



ここに辿りつくまでに、私を見限った人が、周りに多かったので、


トラウマで焦るのもあると自覚して来ました。



だから、情けない、と、思う自分も情けないです。


でも、そのモードになって、幸いに、こうして、無音でエディタに打ち込める時間が与えられた場合は、


吐き出す言葉によって浄化されるのか、


落ち着いて行きます。




影響を受けて、吸い取り紙みたいに吸ってしまう私の、唯一の解毒方法なのかもしれません。


だから、ブログを続けているのだと思います。



正直、人気のブログは羨ましいけれど、


同時にたくさんの人に影響を与えてしまうプレッシャーに私の場合は潰れてしまうでしょうから(苦笑^^;)、


これでいいのだと思います。


人さまに勧められる前に『勝手にセルフ自己啓発』しちゃっているのかもしれません(苦笑)


数学でいうところの『自明』ってヤツ(←証明するまでもなく明らかな事をこう書きます。)


なのかもしれません。


こんな私を受け容れていただけない人に、何らかの辛辣な言葉を受けたのだと思います。


そのニュアンスが「情けない」と酷似していたので、


おそらく私は私を「情けない」というラベリングをしてしまうのだと思います。


そうだとここまで書いて来てわかったのだから、


人さまがつけた私のラベルをはがして、


私が思う私のラベルをはろうと思います。


なぜなら、そのラベルは、私を勘違いし、ネガティブな表現のものだから。


私は私。


孤立という意味では無く、独立という意味。


独立した互いが共鳴出来る事だって、いっぱいある。


辛辣な言葉で私の精神を追い詰めた全ての人へ私が屈していない事を証明するために。


私は私へのレッテルを、ひとつ、ひとつ、まずははがす必要がありそうです。


私を助けるために。