私こそ、余裕が無くて、オカシイんだと思う(>_<)
いつも何かで当たられてた生い立ち(>_<)
女の子なのにブスだ、
デブだ、
が始まりだった(>_<)
母の価値観では、
いかに美貌や家柄で、
良家に嫁ぐか、が、
アイデンティティだったらしい。
あの時代の総ての人がそう思っていたかは誰にも解らないけれど、
母や母の周りは暗黙だった。
顔にもし痣があったらダメ、
視力が悪かったらダメ、
そうして結婚して、
習い事で集った仲間の紹介には、
「この人は○○医院の奥さん」
に始まり、
旧家だ、一流企業だ、老舗だ、学者だ…と説明は続いた。
私には全く理解出来なかった。
映っている母の仲間の名前が全く出てこない。
だから映っている母が普段交流している人の顔も覚えられない。
だからある日、『何度見せられても解らない!だって皆さんのご主人の職業の紹介ばかりなんだもの!』と言ったら、
母は初めてハッとした。
そうして教えてくれたのだ、
母や母の周りの価値観では、
いかに美貌や家柄で、
良家に嫁ぐか、が、
女性に求められたアイデンティティだったのだ、と。
祖父の意見が第一、次に長女の嫁ぎ先の義理の長兄。
だからこそ身を律した家父長もいれば、
その権限に甘えて自らは傍若無人なのに人にだけ厳しい家父長もいただろう。
いずれにせよ、女性には主張も自己決定権も許されて無かった。
映っている女性の名前ではなく家父長の紹介が忘れられない。
母は家父長になった父の配偶者になったが、
父は末っ子だったので、
いいように父の奥さんと義理の末妹を使い分けられ、
婚家との付き合いに神経をすり減らし、
自覚のないままに精神が疲れきって破綻してしまっていたのだろう。
取り分け厳しかったのが身重の時に配偶者を会社の事故で亡くした伯母と、
若い頃に胸を患って嫁ぐ機会を失った次女にあたる伯母。
本家に残ってた。他に行くところが無かった。
同じ家の台所に血縁関係の無い女性同士は相性が悪い、というこれまた当時の価値観。
時代ってなんだろう、
ついていく、ってなんだろう、
解らなくなる。
兎に角、あの時代の人は権威権力を強く意識するので、
そういう意味では診断がついて守って貰えるけれど、
それがナンボのもんや、という価値観の人には通じない。
ホンにこの世は生きにくい。
今日の私はというと、理系の思考を持ちながらも、
身体の元々の感受性は、
強い雨風に『自然が怒って矢継ぎ早に大きな音を立てている=怖い、怖い、ごめんなさい、怒らないで、あらぶらないで、ごめんなさい


信じて貰えなくても事実

小さい頃から下弦の月が沈む頃の満ち欠けが、口がへの字になっているように私には見えて、
深夜が怖い怖いと思う子どもだった。
怖すぎて言えなかったし、現実主義の母は、きっと理屈で私を無知扱いして、情けないため息をついて、
また弟に添い寝しただろう。
弟が高校に進学し大学受験がうまくいかなくて?、
恥ずかしくて外を歩けないと私に糾弾した大学にさえ遥か及ばない結果になるまで、
母の弟への溺愛は続いた。つまり、その瞬間、また母は、
弟にかつて私に浴びせた言葉を吐いた。
私は先に経験しているから、弟を庇った。
それでも、それから弟の素行は荒れていった。
手のひらを返したのは世間ではなく実の母だった。
母自身も何かと比較され辛かったのだろう。
私も従姉妹とは容姿とお付き合いのお相手の件で、
従兄弟とは学力と就職先で比較され優劣をつけられた。
なんのことない、みんないつの間にか争いに巻き込まれてた。
それで疲弊していった。
だから私は殊更この発達障害と折り合いをつけなければ生きてはいけない。
まずは生きるだけでも相当常に大変であるという事を理解していただき、
私もこんな私である事をお詫びしたいです

いつも選択出来なく、いつも受け身の側。
生きる事に疲れてしまっても許して欲しい

期待に添えない事があっても許しで欲しい

出来れば独立で生きて欲しい、障害者をこれ以上こき使わないで(理想を押し付けて従わせる、という意味)欲しい

みんな疲れてる、健常者も疲れてる

理想や夢という欲をもう少し抑えてはくれないだろうか

空が凄く怒ってる(>_<)
ごめんなさい、怒らないで、あらぶらないで。
身体が…辛いです


