ブログ発信する意味が解らなくなりました。



素敵なブログはいっぱいある訳だし…



それより皆さんに貢献出来ていないブログだから、


発信する必要を思うと、


…何だか悲しくなってきました。



自分が何からも必要とされてない気がして。



家族からは物理的な関係から必要とされるでしょう。



でも、違うんです。



こころ の 問題。



こころがやわらかくなるブログを書けて来たのかなあ、って。



こころがやわらかくなる活動をされているブログのご紹介や出来事はアップしてきたつもりです。


中には、宇宙に癒される人もいます。



ここでいうのは物理的な(←実在するという意味で実は一般的に使われている言葉です。)宇宙ではなくて、


こころの宇宙です。



是非ここでこころに対する認知の誤解を解いておきたいです。


こころはどこにありますか?


こころをひょうげんするものはなにですか?


実はことばです。


ジェスチャーも含まれます。


瞳孔の動きも含まれます。



そう、ノンバーバルということばに。



運動という言語、音楽という言語に。



我思う故に我あり、という有名な哲学の言葉があります。


音声に出さないだけで、文章に書き出さないだけで、


思うとき、一文字も言語を脳裏に浮かべてないかというと違います。



空が青いなあ、も、



何だろう?、も、



思い浮かべているのは言葉です。



名字も名前も言葉です。


特に人と交流するとき、使われるのは言語です。


バンドを組んでも楽譜にして渡します。音符も休符も五線もテンポも雰囲気も、


記号という名の言語です。


絵もそうです。タイトルがついています。


もし、タイトルがついていなくても、誰々さんが何番目に描いたどのような絵、と表現出来ます。


悲しいかな出来ちゃいます。



この世からシンボル(言語学的にはこれも含みます。象形文字や☆とかね。)


なんだかそれを感情的にムキなってリジェクトする人が多くなって、


これがまた例の、


多いが普通や流行りになって。


アニメ見たってセリフはあるんだし、


映画なんてもっと多いし、


ドキュメンタリーでも編集意図はあるし、ナレーションはあるし、


慰霊祭でも天皇陛下のお言葉があるし、


被災された各県の代表の方の言葉があったし、


司会がいらしたし、


時刻も場所の名前も言われたし。


それらに対してはつっかからないのに、


何故、思考や意見には、過剰反応になるんだろう。


被災された方の代表の言葉も、代表者の言葉であって、


被災された方の全ての人の気持ちを包含している訳ではありません。


新しく二三年後にようやく再建の目処が立った、という人のコメントが採用されるけど、


もしかしたら家庭の事情で、最初から仮設住宅のような暮らしで、震災が無くても、ずっと仮設住宅のような暮らしで一生を終える人も紛れてる。


事実を伝える言葉は必要不可欠だけど、抑揚は修飾だとすると、形容詞も形容動詞も後からでいい事になる。


英語の文型で言えば、第三文型のS+V+O以上は余計になるし、

先ず生活だけで余裕が無いなら、娯楽(エンターテイメント)は贅沢で楽しめない。


被災地で記念撮影をする訪問者のピースサインに、傷ついてしまう人もまだいる。


ピースサイン、平和のサインという意味なのに。

若者かもしれない、友達といたかもしれない。


でもそれだけで、被災された方は、普通に暮らせる幸せに鈍感になっている、という言葉をある番組に寄せました。


もしかしたら、ピースサインをした若者は、他県だけど被災していて、無理に元気な顔で写真に収まったかもしれない、

被災してなくても不遇な人生かもしれない。

アルバイトして捻出したお金で、ボランティアに駆けつけた、その後かもしれない。

統計を取る前提のように、起こっている全ての可能性が同様に確からしいのなら、

番組にコメントを寄せた初老の女性はピースサインをしていたメンバー全ての生育環境を調べることなく、

写真をピースサインで撮影していた瞬間の見かけの事実でその若者の人生や感受性やこころを勝手に決めつけた事になる。

採用した番組スタッフの選択の判断の意図がどうであったかにもよるけれど、

決めつけられ勝手に番組の生放送で発信された、もしかしたら僕たち?私たち?の弁護はどこで実現可能になるんだろう。


とか、そんな事を考えたりして。


そうして落ち込む。


私は出来るだけ事実を偏差を逆式で外して、改めて別の出来るだけ平坦な視点で、データ(言葉)を見ようとしています。

とんだ濡れ衣や、世の中に浸透してしまったマジョリティ優位を解消するためです。

つまり出来るだけ思い込みを外します。

一旦、抑揚を外して、パズルのピースにします。


もしかしたら、違う絵が出来るかもしれない。

すると、最初に与えられたパズルの絵だけが正解ではないし、もしかしたら最初に与えられたイメージにとらわれているかもしれないのです。


これが偏見の正体かもしれないと私は考えているので、

予備校が算出した偏差値を殆ど信用しません。


客寄せに発表するデータや言葉は、発信元に都合のいいようになってます。

ですから数多にある数式のうち、都合のいい聞こえのいいものを選出しています。既に。

これに気づいていないといきなり信じてしまう事になります。


自分の都合のいい解釈結果にならないように、この場合はどの手法を使うのが適切か、から徹底議論したり、

無いから新しいものを研究して開発しましょう、という畑とは違うのです。


もしかしたら、それをいくら説明しても、焼け石に水の状態かもしれない事を憂い過ぎた結果、


「このままブログを書いていいのか」になったのだと思います。


しかし、この悩みこそが、アクセスランキングに巻き込まれて洗脳されたからこその産物なので、

元に還って、私はブログを宣伝に使う必要が無い生き方で、内容がどういう形状をしていようと、

真に純粋に書くことを楽んでいるんだから、


刑事罰に触れない限りは躊躇する必要は無いのだと知識整理出来ました。



は~、スッキリ!


私は、やっぱり、書き出さないとねパー



ではまた~ドキドキ