
近くの中学校の正門脇。立派な樹のうち、ひとつが切られていました。病気になっちゃったのでしょうか。
切り口はまだ新しく、なんだかショックを受けました。
何歳さん、だったんだろう・・・私は樹医さんじゃないので、解らなくて、悲しい気持ちになりました。

傍にこのような小さなお花さんがいました。直径2センチくらいのお花です。単年草なんでしょうか、多年草なんでしょうか・・・御名前なんですか?
立派な樹も、小さなお花も、同じ命です。
見た目が違うけど、この地に根を張っているのは一緒です。
なんだか、それらを、それぞれに感じて、どうにも自分の中に落としこめないまま、病院にとぼとぼ歩いて行きました。
昨夜、ちょっとした発作が出たので、安定剤を少し多めに服用しました。誘発原因かどうかはわからないのですが、知っている中では初めての原因だったので、とてもショックでした。
これまでは、その程度なら、発作に至らなかったのに・・・
堕ちるまで不安でした。起きたら息子が徹夜で様子を窺ってくれたようで、早朝のゴミもしっかり出してくれていました。
これまでも私が体調不良で、外に出られない時は、こうして、可燃ごみも不燃ごみも出してくれて、御近所のおばあちゃまに親切にしていただくそうです。ありがたいです。
お薬が抜けないまま、飛び起きて、まだゴミを出せていないと思って、ふらふらと階段を下りて、息子に「間に合わなくなっちゃう!!」と言ったのですが、既に出したと。
いつもは聴覚がしっかりしているので、息子の所作の音は全部拾えるんです。それさえ解らない状態でした。ま、いつもは一錠のところ、三錠も飲んだので、お昼前の診察予約時間までは、無理だろう、と息子が読んで、既にしてくれていた事に、有難いやら、申し訳ないやら、自分の劣化が悲しいかな・・・
そんなキモチで、とぼとぼと歩いていて、それで中学校の庭の樹やお花を見ていたんです。
まだまだ徒歩圏内は続きます・・・今日はなぜかいつもと違う道順で歩いていました。東大路を西に渡り、京都大学病院の敷地の北の端を歩きながら、西病棟に向かいました。
途中近衛通りを西に向かうのですが、川端通りに向かう途中、薬学研究科があるのですが、その敷地の大きな木々達が『さわさわ~・・・』と風で話しかけてくれました。
前に書きましたが、さわさわ、というのは、どこかの言語で『大丈夫だよ~』という意味なのを想い出しました。
風が木々の葉っぱを借りて、それらがこすり合わさって、『さわさわ~』という音を立ててくれました。
見えないモノ、健常者が聴こえない周波数のモノ(モスキートも未だに聴こえます・・・)、触れないモノを、とても繊細に感じる自分を憂う必要はないのだと思いました。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
そう思いつつ、西病棟に入ると、全てのスタッフのみなさま、主治医の先生と、とても親切でお話が穏やかにできました。
目に見えるもの、耳に聴こえるもの、が、どうしても先に入って来て、それらに惑わされてしまう自分がいるんです。その内容は、整合性が取れていない事が多く、それゆえ混乱してしまう状態が続きます。
そんな自分が辛いと、申しました。
すると、主治医の先生は『考えても仕方ないモノから離れて、数学をなさるとか、物理をとくとかしてください』とおっしゃいました。
ここでいう、先生の『考えても仕方ないモノ』は、(=整合性がとれていなく、トリッキーや、宣伝性の強いモノ、搾取的なモノ)を指します。
なので私は「でしたら、もし体調が良かったら、より専門性が高く閉じている、つまり整合性を限りなく追及する研究会(=修士でも二回生や博士や国内外の客人の研究者やどこかの教授の発表の会)には出席してもよろしいでしょうか」と追加問しました。
すると『はい、(それも御自身で体調を鑑みて、大丈夫なら、)そうしてください』と仰いました。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
そもそもの私は「理由の不明なヒエラルキー」「理由に整合性がとれていないヒエラルキー」を嫌悪します。
他人のふんどしなのに、自分だけで相撲をとっていると勘違いしている人はもっと嫌悪します。
すり変えたり、トリッキーな、それは、「あ、今、変なカンジ。論点がすり変わった?」と気付いてしまいます。
そのような時は、そのような事象から、離れることが、心休まるのだと、解りました。
ちなみに、主治医の先生の御名前には、「顕」という字が使われています。御父様もお医者様で、御父様が名付けられたのだそうです。
そう、顕在化、の顕。
何とも医学を含めた学術に通ずる御名前だと拝察申し上げました。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆