知らない間に、いや、もしかすると解ってて、敢えて封印したのかもしれない。
遠い、遠い、消えそうな、消えてしまっていたと思っていた記憶。
「忘れたんじゃないさ。思い出せないだけで。」
あの台詞、ズシンと来て。
ハクの鱗がキラキラと剥がれて、月夜に輝いて、
千尋のそのような記憶が蘇った、その瞬間、その感動。
私は、持って生まれて来た役割より、生まれて来て宛がわれた役割を生きようとしました。
それ故に、自分の本来の役割に、ある意味蓋をして、ある意味嘘をついて、
宛がわれた役割を必死に生きて来ました。
たとえ発達障害で、それがLD(学習障害←努力の範疇を超えて不得意な分野)でも。
そうする事が、親孝行だと、それが当り前だと、いえ、到底、逃げられなかったのです。
倒れても、逃げられなかった。
生き方も、死に方も、全部、決められた。宛がわれた役割。
それがいつしか自分を蝕んだ事さえ解らなかった。
なんなら、その道を行くなら、命なんて惜しくなかったし、むしろ投げうちたかった。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
私には弟がいて、彼の進学ように、学資保険を母がしていたと思います。
3年先に生まれた私は、関係ないと思いきや、母の過去を、父の過去を払拭するよう、弟よりは力が入っておらず、
おまけみたいに、高校受験用に、塾に行かされました。
こぢんまりした、私には合っていた、寺子屋のような塾でした。
お兄さんくらいの歳の先生が経営していて、彼も東京大学を受けられなくて、東京医科歯科大学(それでも立派だと思うけど)に行ったのだけれど、なぜか中退したのか、どうなのか、医療関係ではありませんでした。
私は、弟が生まれてからというもの、いいえ、当時は、男尊女卑が当り前の時代だったので、なんでもかんでも弟だったんですよね。
なので、ちょっと通ってみたら、それまで勉強なんて全く我流で、どこをどうすれば、のような、力のいれどころというか、勘所を享受していなかったので、
意外にもスクスク伸びて行ったのです。高校進学の最終決定時には、学校の先生から、校区のトップ校を受けてみないか、と提案されました。
家から遠く、プレッシャーに弱い母はお弁当を作らねば、と思うほど起きられない。若い頃外に仕事に出て、給料を入れて家計を助ける生き方をした母には、それは難題でした。
父は、いくらも、私の気持ちを釣り上げました。トップ校と二番手では、はたから見るより大きな差がある事を、父は知っていたのです。
しかし、釣る材料が、悲しかったのです。
習っていて、進学のためにお休みしていた音楽教室の楽器をいいものにしてやる。お小遣いを決まってあげるようにしてやる。・・・そんな事を言いました。
私は、そのような事より、トップ校に行った際の、心構えというか、こういう処に気をつけなさい、お前の気質はこうだから。とか、母の負担をどう軽減するかに話の焦点が向いていたら、
安心して学校の先生に願書を出します、と返事したと思います。
けれど、そうじゃなかった。私個人への御褒美で、お金だけでどうにか出来る事ばかりだった。
まるでモチベーションや母への気遣いをお金で解決しようとする姿だった。
私は、翌日、二番手にします、と学校の先生に告げた。私の内申は学校全体会議で他の生徒に行った(塾仲間だから解った)。
父は、恒常的に何かを継続した記憶が無い。機嫌を損ねたら、その財力にものを言わせる。すると、当初の約束が全てひっくり返ってしまう。
私はそれを回避したかった。母が遅く起きても、自分さえ用意出来たら、通える二番手の学校の方が近かった。
春休みや夏休み、冬休みに、出身の寺子屋塾で採点のアルバイトをした。当時で時給450円だった。(←合法だったのか?^^;)
けれど、その時のアルバイト代を、無駄遣いせず、母が起きられなかった時は、学食で一番安い昼食を取るか、パンを買って凌いだ。もちろん朝ご飯は食べていない。
母が朝起きられないのには理由があった。更年期障害もそうだが、父が、殆ど家に帰らなかったからである。何かあったんじゃないだろうか、そう思う母を尻目に、母は外の女性の家に入りびたりになった。生活費を父の会社にまで電車で取りに行ったのもこのころ。
たまに返って来ても、朝陽が昇る頃。そうして入れ違いになって、学校から帰ってきたら、また父はいなくなってて、またいつ帰るか解らない人になってた。会社から電話がかかってきたとき、子どもながらに返事に本当に困ったのを覚えている。
「もう出ましたけれど・・・」としか言いようが無かった。
お金で言うと、住んでいたのは借家だったから、月初にちゃんとお支払いするのが、母が祖父母からもらって躾けだった。払うものはちゃんと先に払う。自分はお茶づけをすすってでも払う。
父は末っ子で、伯母たちに溺愛されていたのかもしれない。自分より下のきょうだいがいないから、自分が率先して、何かを奉仕する、という考えは無かったように思う。
そんな父だけれど、やはり親族では男子ひとりで、祖父母も私が生まれる遥か前に他界していたから、親に何かをしてもらった記憶が無い人で、自分でどうにかやりくりするしかなかった人でもあった。
全く生きて来た道が違う父と母だった。母は祖父母が健在だったから、もしかすると、私の幼少の頃のような想いをしていたのかもしれない。結婚しても実家の祖父母、特に祖父の機嫌を取るのに気苦労していた。元兵隊さんの思考は時に悲しすぎる。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
そんな父も、自分が、昔の一期校(旧帝国大学のうちでも序列があったようです)に受からなかったため、私に期待をかけたようです。例えば、関西では、関関同立といって、関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学、と、有名4私立大学と言われているのですが、父はこの中でも、同志社と関西学院大学以外は、大学として認めていませんでした。
東京でも、慶應、早稲田しか、認めていませんでした。つまり、それ以外の大学になんか進学するなよ、という、暗黙の態度でした。事実現役の時に受かった大学の書類は、自宅に届いた時、父がたまたまいたのですが、「ん?知らんな、こんな学校。」と言い、そのままゴミ箱に捨てました。私は高校に行って、進学しない事だけを告げました。父がそうしたことは言えませんでした。高校の先生には叱られました。当時女子が浪人するのは・・・という風潮がありましたから。
思えば、いつも、どんなときも板挟みでした。自分が生まれ持った役割なんて、意識する余裕なんて寸分も無かったです。
浪人した後、滑り止めの大学になり、母は狂乱しました。高校の同級生は、京都大学をはじめとする錚々たる国立大学への朗報を受けていたのに・・・と。恥ずかしくて外に出れない。お買い物の先で、会えない、と、泣かれました。これは流石にきつかったです。
母は、高校卒なので、大学を受験すらしていません。それを知っている父は、慰めに、『ま、俺も、昔、大阪大学落ちたんやし、カエルの子はカエルって事やな。』と言いました。
救われた気がしました。居場所が自分の立って居る円くらいはあるのかな、と思いました。息をしてもいいのかな、って思いました。母は相変わらず、人生を返せ、受かってないんだから、御飯を食べるな、息をするな、好きな事なんてもってのほか・・・のままでした。(今は離れて久しいので、そのような干渉は耳に届きませんが。)
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
そう思うと、36歳から一発発起して、京大大学院に進学して、とんでもない世界についていけなくて。一方で、知らない世界だから勝手な推測で勝手な期待をして、実家も放っておいてくれなくて。
ある意味博士を取ってからもポスドクといって、非正規雇用の博士がわんさかいます。有名かつ厳しい大学で学位を取ったからこそ、周りから期待されるし、本人もレベルを下げられないようで、更に狭き門に突き進んでいきます。
私はそんな中、子どもがイジメにあったのもあり、もともと気が弱く、競争が怖いと感じる人なので、精神疾患になってしまいました。
父なら、あの時のように、「もうええ。体壊してまで行くところとちゃう。カエルの子はカエルや。」って言ってくれるだろう、と、ふ、と、消えてしまっていた記憶がよみがえりました。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
父は、還暦を迎えることなく亡くなったのですが、その若さで、私が解らなくなってしまっていました。
私の娘と息子を、私と弟と間違えているようでした。私が、私の子ども達の歳の頃、東京の会社にヘッドハンティングされて、ストレスも凄かったようで、家に帰れなくて、一緒には入れませんでした。
病に倒れてから、やっと家に帰って来た感じです。最初はぎくしゃくして、3年ほど父がいないのに、喧嘩が絶えず、私は、家を出ました。それきり帰ってはいません。
離婚の時も、昭和30年代の団地が当たるまで、おそらく三か月ほどだから、間借りさせて欲しい、とだけ告げました。母の手前です。母には世間体から、実家はあっても帰る家も、離婚する自由もありませんでしたから。
父は、「俺がこんな身体じゃなかったら、お前達を食べさせるくらいなんて事ないのに・・・」と悔し泣きしていました。
そんな父がいざ、記憶が混濁すると、とてもショックでした。
私に、娘と息子の居場所を訊ねたのです。看護師さんと間違えたような口調でした。
そこで、私は、「何言ってんの!私ここやん!!しっかりしいや!!」となぜか、病床の父に大きな声を出す事も訂正する事も出来ず、そのまま看護師さんを装い、
「あ、さっき、お姉ちゃんが、弟さん連れて、自動販売機にジュース買いに行く、って言うてはりましたよ~。もう戻ってきはるんちゃいますか?」と言いました。
すると、父は、弱弱しく「そうですか・・・」と言いました。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
色々あったけど、二人が離婚しなかった理由は、二人とも子どもと離れられなかったからだと思います。私はいつも弟だけが可愛がられていると想い、いつも私が超えて来た事なのに、早々に甘えてどうにかして貰う弟が、なんだかずるく思えて、釈然とはしていませんでした。
でも、弟だから、心配ですよ。「おとうと」って吉永小百合さんの映画があったと思いますが、まあ、そんなもんだと思います。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
支離滅裂ですが、兎に角、私は、「その人を命有る限り、覚えている事」が、大切だと思っていて、それがその人が生きている証拠だと、ずっと物ごころつく前から、貫いている事であるのを、意識したというか、瞬時に思い出したというか。
亡くなった人、お別れした人、みなさん、覚えているよ。
それは・・・なぜかは解らないけれど、私の特徴上は、記憶の容量が少ないという検査結果なのに、相反する事です。
支配階級に自分自身を搾取されないために、障害になってくれたんだな~・・・って思ったら、有難いと言うか、記憶が突然噴出してくる自分を、堪能するために、生きていてもいいかな、って、そう思ったりしました。
御迷惑や御心配ばかりをおかけしてしまう身体になってしまったので、成績優秀でなかった時も、そうでなくなった時も、生きている価値がなくなったと思いましたが、最近はもっと生きている価値が無くなったと思っていました。
子ども達が、不安そうなので、頑張っている、それだけでした。
自分の意志で「生きたい」が、ありませんでした。
私が、何度も会っているのに、名前を間違えられるのを酷く嫌うのは、その人の記憶になく、存在しなかったも同然、と、理解してしまうためです。
「いのちのなまえ」
大切だと思います。
(そのうちハンドルネームやめて本名にしたりして^^;)
(DV離婚して、昨年の春に、FBで見つかって、一応警察に行ったし、先方も謝るために探してた、と、言ってたんだけど、まだ、怖くて。こっちの記憶も消えないんだよね・・・心身に辛い事、力づくでいっぱいされたから。あ、頚椎の何番目かズレているのはそのせいです^^;)