からだが、どろみたいで、まったくうごけません。

すいぶんとおくすりと。


おねえちゃんはさむいのもだいじょうぶで、


ついたらきげんよくなってだいじょうぶらしい。


しんぱいとけあで、どうにもうごかない。



ちいさいころ、むかしのかちかんで、いとこののぶこちゃんが、しんぞうびょうだから、


おにいちゃんであるひろしにいちゃんはけっこんできないんだとははがいった。



ひろしにいちゃんとのぶこちゃんのあいだには、おとこのこがいたらしい。


でも、しょうにはっけつびょうでそうぜつなたたかいのあと、てんしになった。


だから、もうしんじゃったけど、おやであるまさこおばちゃんは、


もうのぶちゃんのからだをいたくすることにふみきれなかったらしい。


のぶこちゃんは、わたしより、ひとつうえで、はげしいうんどうとか、けっこんとか、しゅっさんをひかえて、


いまもいのちをほそくつないでいます。



わたしは、じぶんのははおやが、のぶこちゃんのせいじゃない、しんぞうびょうのせいで、


かぞくがふつうのひとがすることができないのは、いきてるかぎりめいわくをかけている、といったことに、


おさないながらにしょっくをうけた。


ほかにも、あたりちらすことや、ひとのこういにたいしてひはんてきなことばをふだんからきいてきた。


だから、わたしも、ちいさいときから、からだがよわいことを、ぐちをこぼされながら、しかたなしにせわをされているかんかくでそだった。


だから、こんなちょうしのわるいときは、いきていることだけで、みなさんにもうしわけなくなるんです。


だから、ひとにちゅういするよりは、みずからひきこもっていきます。


でも、そうすると、ひとにあたりちらすひとは、かんがえかたをかえてくれません。


ただしいから、わたしが、ひいた、とおもいこんでいるからです。



いやがられてもなお、ちかくなるようなずうずうしさをもってはいません。



だから、ゆめももたなくなりました。



よのなか、いいひとばかりではなくて、ゆめをもっただけで、いじめたり、じゃましたりするひとが、ごまんといます。



だから、ゆめなんて、もたないほうが、しゅうだんでいじめられたり、たいりょくがあるひとのひまつぶしでじゃまされることがありません。



きょうはまーちゃんもねむったまま。



げんきでのんきで、むかしいじめたがわのひとがうらやましいです。



こんなかんかく、すんぶんもないんだろうな~…


めいわくをできるだけかけないように、じぶんひとりでできることしか、ゆめをもちません。



いまは、ほっさがおこらないでほしい、ということがゆめです。