あの後でした。
子宮収縮しますから、やっぱり癒着がひきつれて脂汗でつ(T_T)
突然ですが、
私は実母とうまくいっていません。
とても気分の落差というか常に好戦的なので、
初潮の時も生意気な!みたいに言われて、それからずっと口をきいてもらえず、お赤飯は仕方無しに炊いてくれましたが、お葬式のような夕食でなにも知らない弟は、今日は誰の誕生日?と訊いても、いいから黙って食べなさい!でした。
私はこれを機に嫌悪されていかれたように肌で感じました。
学校で女子だけ別室できいてはいましたが、いざそうなると、私は何かとんでもない病気なのではないか、と怖くて、半日言えなかったのです。
半日ずっと怯えてました。
子どもからすると、初めて、これまで意識していなかったとんでもないところから出血し、みるみるうちに下腹部が張ったり痛かったり、そうしてトイレに行く度経血が褐色になっていき、それにも怖くなり、もう怖さで頭が真っ白でした。
勇気を振り絞って母に伝えると、いきなり叱られました。はやく言わないから下着の汚れが取れにくいやんか!汚い!さっさと石鹸で洗って!学校で教えて貰ったんやろ!ちゃんと絞って干しときや!!
と去っていかれました。そうして口をきいてくれなくなりました。
学校で汚れたらどう洗うか、ナプキンはどういうものでどう使うのか、は教えて貰った事はありませんでした。ただ使い終わったものはトイレットペーパーに包んで他の人が不快にならないように、汚物入れにいれて、もし便器を汚してしまったら、同じくトイレットペーパーで拭いて下さいね、は、教えてもらいました。
当時、これほどコマーシャルは無かったし、羽根つきもありませんでした。そういう部分は親にきくしか無いのですが、いきなりシャットアウトでした。
元々学歴コンプレックスが異常なまでに強い母は、子どもは親に従え!勉強以外はしなくていい!が口癖でした。
東京の中野区に住んでいたので、有名校にはすぐ通える環境にあったのですが、父の仕事がうまく行かず大阪に戻る事になり、それに対して取り返しがつかない程にリベンジの機会を失ったと思ったのだと思います。
それから益々万能であることを求めました。容姿端麗になれ、と。父に似てポッチャリの私に、ご近所の奥さんから譲り受けた漢方の下剤を飲まされました。のたうちまわりました。辛抱が足りない、と言われました。一方で、絶食も言われました。
なのに勉強は塾も行かずに親も教えずに秀でなさい、と言われました。
ですから、体ばかり色気付いて、この子は!!と怒り心頭だったのだと思います。
おそらく科学的根拠の無い噂で女子は月経が始まったら防戦にまわり、積極的に勉学をしない、と考えたのでしょう。
弟に極端に期待はスイッチし、家での居場所が無くなった、私が汚物になった瞬間でした。
無意識の弟への依怙贔屓が始まりました。
明治時代?それ以前?のような扱いになりました。
たまに父が帰って様子を目の当たりにし、母に注意をすると、翌日父が出社してから、きっと私が告げ口をしたんだろう!と、更に居場所はなくなりました。
だから、女子デーはトラウマです。母性はありますが、パートナーとしての女性性は、トラウマです。
性別は女性でもいいけど、内分泌異常でなってしまった爆乳もいらないし、子どもに恵まれたがら子宮も要りません。
出産後、お医者さんに、お願いですからどちらも切除してください、と懇願したのですが、まだ病巣となっていない臓器の切除は出来ないと言われました。その夜母乳で爆乳がホルスタインになって高熱を出し、夏の出産だったのに真冬の布団をだしていただき、帝王切開の傷の痛みに耐えながらストレッチをしたら、どうにか熱が引きました。
だから、月経不順も摂食障害もありました。SSRIを服用してからは著しく改善をしましたが、昨夜のようなお腹にくる風邪と重なりやすい抵抗力が下がる時期でもあるので、今日は子ども達はどうにか出来ているみたいですから、よく休んで、出てきてしまったフラッシュバックを潜在下に押しやりたいと思います。
実母は自分が誰より正しい唯一の存在だと信じ込む事で、昔の嫁の立場という理不尽さぬ耐えて来た人で、それが母を支える唯一の術だったのなら、意見の相違はあっても、私の方は変えようとは思わず、ただ心理距離を取っていただけたら、少しはこのトラウマからのパニックショック状態がおさまると思います。
似たような苦しみを抱えて生きる人がいらっしゃると想い、考え、勇気を以て、記事をアップしました。
それではレクサプロがぼんやり効いてきたようなので、一旦失礼します
