http://ameblo.jp/licolily/entry-11963547974.html
ふと見つけたブログ。読み進めて最後まで言うと、このブロガーさんは、「そうそう!」って代弁してくれた、ってカンジです。
厳密には代弁というのではなく、同じ事は思っていたけれど、非難されたり、理解されなかったりするのが怖くて、それで勇気が無くて書けなかったんだと思います。
ほんとよく、解ります。子ども達が思春期くらいに大きくなると楽か、というと、今度はそうではなく、自己形成・しかも二次性徴の真っただ中で負担低な過渡期で、親を超えたいけれど、自我を確立したいけれど、まだ非力である現実や、そうせざるえを得ない社会システムにあって、とても不安定になる時期だから、別次元で、どんな小さな事も自分が思ったタイミングで思った内容にならないのが育児。それが恒常的なのです。
これは介護にも言えます。そうして、これらを理解しない暴君気味のパートナーにも言えます。
やって当り前、評価されない、のべつひまなく頑張って当り前で、それで倒れちゃイケナイ、死んでも行けない、大往生じゃないとイケナイ、それで迷惑をかけてもイケナイ・・・けれど、蔑視される。
本当に申し訳ないけど、国際会議で欧州にフライトした時も、周りが遠慮して、パーソナルスペースを取ってくれて、それで忙殺されたけれど、『いつもは育児があるから、全く楽じゃん!』って思った。
そうして、日本に残している子ども達と、普段離れていて、自分が慣れた環境で育児をする訳じゃない母のストレスを想い、とても心配して、早く帰りたかったのを覚えている。
母は仕事に集中させようと、息子が怪我をした事を隠していた。隠していた分、息子が遠く離れていてもメールや国際電話でべそをかくというストレスを吐露する時間を悪気なく奪ってしまった。
いつもやってるんだから言って欲しかった。
育児しながら、修士課程に身を置き、修士論文のための研究をし、実際に神経性の胃潰瘍となり、それでも父の末期を手伝い、毎週御勤めをし、七週間後の49日を終えた時、うつになってしまった。
自分が一番大変だと母はわめき(毎晩8時に長電話をしてきた事を覚えていない)、父の姉たちは早くに祖父母を亡くしているから、年の離れた一番末っ子の父がそうなるのは我が子を亡くすようで感情的というより錯乱ちかくになり、いつものように私に当り散らした。
DVに遭った事まで言われたけど(それは私に責任は無い)、でもあの状況で、口答えなんてできるはずもなく、いっぱい受け留めて、真面目な私はどこに吐露する事も出来ず、全部背負ってしまった。
一度家を出ているから、遺産相続も何もない。ただ小間使いにいっただけ。
父が遺した新築の家も、保険金も、父の御墓や仏壇はいいとしても、弟の新車になり、なんだか、なんだか・・・弟は本当に父を看護など一度もしなかったから、なんだか、男系って何だろう・・・って思った、っけ。
そういう体験もあって、何だか悲劇のヒーローみたいに思っているのは男性で、配偶者が本来自分が看るべき実母の介護をしてくれて、育児もしれくれて、それで心配かけまいと気丈にしていたら、冷酷のように言われて、自分こそが頑張っているように言って・・・
なーんも、わかっちゃいないんだなー・・・って。
もう一度リンク貼っておきます。
http://ameblo.jp/licolily/entry-11963547974.html
身体が弱いから役立たず、穀潰しみたいに言われて、女性なのに母系に似ていないからどうせ貰い手が無いから勉強しろ、って言われて。仲が悪い父に姿形が似ているから虐められて、どうして、親戚の先輩の女性も、「こんな想いは私の時代でもう充分」と思わず、「私はもっと辛かった」としか言わず、周りが父の葬儀でいうには母が一番何か用事(仕事など)を作って、あっちとこっちの両方に別の事を言って、どっちからも逃げていた事を知って、
なんのこっちゃない、娘が親の母親のような機能不全と言われる役割をしてきて・・・
どれだけLICOさんのような事を考えてくれている人がいるのだろう?と思うと、何だか泣けて来た。
今の方がいい制度いっぱいある。保育園だって、冠婚葬祭でも、休職中でも預けられる。私の時は無かった。トイレだって幼児用の椅子なんて無かった。それでも、「いつか大切な我が子が親になる事があるとしたら、その時に、ちょっとは今より生きやすくなるんだ・・・」と思ったら、
「私の時はもっと大変だったのよ!」なんて思わない、寸分も。
だから、何か文句を言う時や、言う人って、理解されていないというか、周りが自分の体験だけを正当化する、というか・・・発信する権限をもっている人が自分を正当化すると、それと違う生き方をしている人が蔑視される可能性を考えないのはいかがかと思う。
ノーベル平和賞をもらったマララさんは素晴らしいけれど、今、パレスチナに残っている、親が教育者でない女性は、彼女の行いが積極的であればあるほど、標的にされると哀しむ。そう、別ものと理解する事ができなくて、同じパレスチナの女性だから、と、パレスチナに残っている女性を、これまで以上に攻撃する男性を、自分だけイギリスにいて、教育を受けて、護られている場所で感動的な講演をしても変わらない。
彼女は、マザーテレサとは、全くアプローチが違う。
なんだか、ノーベル賞自体が、数ある賞のうち、目立つ賞だけれど、なんだか人気取りみたいなカンジがして、本来のノーベルの意志に忠実に選出されているか、それが今の情勢において、本当にそれで、不遇な人が出ないのか、特に平和賞については、慎重に選んで欲しいと思う。
マララさんも、ある意味、勘違いしてしまいそうで怖い。メディアに取り上げられればられるほど、彼女は発言をし、メディアが都合のいいように編集してしまい、それを真に受けた反勢力の人は、また若い女性を恐怖に至らしめる・・・
日本で理解されない育児に対する辛いと思っている局所的な事と、世界人権における女性問題の局所的な事が共通しているように思うのは、私だけだろうか・・・。
発信力と発信技能とは違う。自分が楽になるために口を割ってしまうのと、聴いた人が辛くなるから堪える人とは、本質的に違うと思う。
違うと思う。