高校に入学するまでは英語、好きだったんです。
具体的なイメージは無かったけれど、英語が話せたらカッコイイな~、とも思っていたんだろうと思うし、流暢な音が好きで、その言葉で語られるヨーロッパの芸術(造建築物や音楽など)をイメージする事がとっても幸せで。
で、入学した時、廊下で未だ知らぬはずの先生と母親が歓談していた。え・・・・。なんと、その先生は、かつて母が高校の時に大卒の新米先生だった人。
はー????そんな事知っていたら受験しなかったよ・・・中学の先生がお薦めの高校別にあったのに。お小遣いを貰えず、自分で自由に家事が出来ないから、母が寝坊するのでお弁当を作って貰う時間が必要で。だから近い学校にしたのに。
・・・で、気付けばその先生のクラス。毎回READERの時間当てられて。新入生代表(入学試験1番)の子も同じクラスで、その子が回答出来ない問題でも、代わりに当てられて。
そのうち、母が家庭の事情で進学出来なかった事を知っているその先生が、父の元だと進学できる私に、その母が無念だったろうと思っている積年の想いで強烈指導。
そのうち英語の時間に腹痛を起こすようになりました。どんな回答をしても大まかな意図が伝わっていればいいだろうに、緻密に訳す単語の順番さえ指定された。その先生のやり方しか許されなかった。
要するに力づくだから、私は英語の時間が恐怖になってしまった。文法の時間も怖くなってしまった。
英語力は随分前から必要な事は解ってる。一生懸命勉強した。カタコト使えるようになって、留学生がいるから英語で発表したら、そのまま研究が盗まれて、その子は得意としていた英語とプログラミングを駆使し、とっとと国際会議に投稿してしまった・・・国費留学していた重責があったので、最短年限で業績をあげないと、今でもクーデターのあるような国だから、命が危ない・・・
そう思ったら仕方ないと思ったけれど、私だってこの国で生きなければならない。それ故、自分を責めた。一生懸命に勉強していたら邪魔をしない人がそれまでいてくれた事にやっとやっとやっと気付いた。
そうした途端に研究の業界が怖くなった。政治的な事も見えて来た。純粋に解らない事がちょっとずつ解って行く過程、それまでウンと時間がかかるからこそ、神様からのプレゼントであるかのような感覚・・・。
・・・私は、呑気・・・というか、不思議な意味で箱入りだったのである。皆、とんでもない重責を背負っている。ライバルなんていうチープな言葉では表現し足りない世界。憎悪が混じっていると言ってもいいかもしれない。指導教官とさえ、いつしか物別れが来る可能性もある。
・・・そんな世界だ。なあなあじゃ、出来ない。
だから「呑気で過ごせばいいんだよ」とか「気楽に過ごせばいいんだよ」って本当に気休めにもならない。だったら変わりにやってみろ!って思う。
高校の英語の授業でお腹を壊すようになって、情けない、意気地なし、根性無し・・・色々言われた。大学受験を追い詰められた経験の無い母親に言われた。・・・ショックだった。
今日、30年振りに母校に電話した。時代が変わり、語学に力を入れる指定校になったのを思い出して。偶然英語の女性教員が出てくれて、突然の申し出と、矢継ぎ早の質問に、傾聴の姿勢で対応してくれた。
これまで受けたカウンセリングなんて、はるか届かない所の絆創膏を貼ってくれた。
有難かった・・・他にも今日は素敵なフォローをしてくれはった人がいらして。本当に有難い。私は、期待を掛けられるという形で、お願いを聞いて欲しいと強引に持って行かれてきたから、心がうんとうんと傷つている。有無を言わせず強いられて来た。
夢なんてみれないよ。自分の夢なんて諦めた事はあるけど、追った事はなかった。当時の同級生の子も、東大でも京大でも現役で行けるだけの成績があったし、人柄もとってもよかったのに、進学調査の時に、「弟が二人いるから、私は四年生大学受けちゃダメなんだ・・・」って。
就職しても後から入ってくる仕事があまり出来ない大卒が出世して行く。真面目な彼女は男性にも騙されていて。そうして時がたって「こういう幸せもあるんだと思う事にした」と、親が決めた見合いで結婚した。
これに対して私は何がどう、とは言えない。ただ、やっぱり何とも言えない気持ちになった・・・
いつだっていつだって、何らかの尺度で弱者は、抑圧され、管理支配されてる。有無を言わさず迎合させられる。
だから「普通」という人が、呑気でいられる事を、メンタルの状態が悪い時は、羨ましいのを通り越して、理解不能で理不尽で苦しくなる。
だからこそ、かもしれないけれど、30年の時を経て、英語への恐怖が、ほんのちょっとだけ、薄らいだ。みやの先生、お忙しいのに私にお時間を下さって、本当に有難うございました。