出来れば安定剤は使いたくありません…
けれど自分より子どもへの心身へのケアがまだまだ優先なので、
それらは実質、私の価値観とは違いますから、ホントはキツイんですけれど、
子ども達には、今生に来てもらった責任が生きている間はずっとあるので。
なので、仕方無いんです。
今は他に合う薬が無いから。
そのために、どうも相容れない方とも、お付き合いする必要があって、
子ども達を大切に預かっていただきたくも、それを実現するものが、経済であったり権力である事だけにするのは、
子ども達に見せる(継承する)形として本当にいいのかと、常に考えながら生きています。
身体が丈夫じゃないとね、動ける事が当たり前じゃないから、
そんな事を考えるよ。
だから、ホスピタリティに関する事も、普通の体験の一部として仲間に入れて欲しいんだ。
ステレオタイプで、実際に体を動かして、実際に触れるモノしか信じない、としたら、
人生のうちで病院のお世話になっている人たちが、
経験不足で劣っている事になってしまう。
これは例のひとつで、他にもあると思うんだけど、
それらから来ている劣等感が本人を苦しめている事があるから。
誰しもが最初からネガティブなんかじゃない。
赤ちゃんが生まれて、何を見て、何をどう感じて行くんだろうね。
その子、その子、かつて子どもだった人は、
あれから何を見てきて、どう感じたんだろうね。
いつから劣等感(そもそも、こんな言葉がある事からして、悲しいんだけど)なんて概念が、
出てきたんだろうね。
だから最近、歴史に興味が出てきた。私は文系の学習障がいだから、化学史とか数学史とかから入ると、
その向こうの大域的な歴史の流れが見えるから。
だから、それが、どうした、ってなるかもしれないし、また人間の愚かさに涙するかもしれないけれど、
そこから学ぶ事は多いと思ってる。
人間、って、なんだろうね?
気づいたら人間なんだけど、人間らしい、ってどういう事を言うのか、具体的には言えないし、
尊厳って言われても、もうひとつ、生活レベルの解釈に至らない。
だとすると、健常者と障がい者の境界線は?
同じと違うの境界線は?
解らない事だらけだよね。
レッテルを貼る人って、解らないから、多数決の考え方を正解としているんだろうけど、
統計学として有意な正解データ、白書を毎年読んでる人は、稀だと思うのに、
巷のバズ(伝播情報→口コミ→流行り)を正解集合としている事実にも気づいてない。
つまり自分が何をしているか解ってない。
白書の正解も統計の取り方によっては、有意とは言えないし、
ましてやバズが、白書の正解と、どれだけ合致しているかも有意なデータを誰も出してない。
だとすると、レッテルという、その人の正解は、客観性が全く無い、
つまり偏見と言っても問題ないように思う。
論理が全てとは言わないけれど、多少は勘案した(取り込んだ)考えじゃないと、
一生、完全なる孤立で、誰とも関わった事が完全に一切無い、なんて人はいないんだから、
多少は論理的(=客観的)であってもいいと思う。
興奮状態では客観的にはなれない没入状態なので、
冷静な思考も多少は並列で併せ持っていても、いいのではないかなぁ~…、と、
思ったりしています。
う~ん…薬から起きて直ぐにしては、まあまあの精度?
自分では解るのは、自分のデータ(過去)との照らし合わせなだけだから(^_^;)
以上、データ工学も専門のよこしま☆ちゃんでした♪←こう書かないと信じて貰えない事が多い(^_^;)