朝、久しぶりに、突発的に強い発作が出てしまいました。
めっちゃビックリしました。
みるみるうちに感覚過敏、特に聴覚! どんな音もパニックの原因。
扇風機の音、生活音、御近所の奥様の音、小学生の怪獣登校の音、まーちゃんの遊んでカサカサの音。
そして感覚も超過敏。お布団に横になった時に腰への布団の圧迫が強い苦痛となる。もう蒸し暑いので、やっぱり扇風機、と思ったら、その風がまた、パニック、パニック。
月経痛も激痛。お腹の動きも激痛。もうおかしくなって錯乱しちゃって、ついでに息苦しくなって、心臓も痛い!!!ついにトイレの壁に「助けて!!!!(この激痛のオンパレードから)」って頭を打ちつけてしまいました。(久しぶりにやってしまった・・・)
今日はプライベイトで一生に一度あるかないかの重責を伴う事があって、子どもではまだまだ出来ないから、代行も頼めない。ずっと孤高に向き合うしかなかったんです。相談する親族も知人もいなかったので、ずっと抱えていました。
で、そんな発作。 慌ててコンスタンを頓服3錠!!!(←医師の許可を貰って下さいね!)
あわわわ、ってなりながら、一生懸命、絞り出す私の声に反応して、携帯で京大病院とかかりつけの病院と、福祉事務所と、法曹担当者へ、息子は拙いけれども一生懸命連絡してくれました。
最後だけは難しそうだったので、薬がなんとなく効いてきて亜昏睡になっている私が代わりました。「・・・つたわって・・・・ますか・・・・?」
『大丈夫ですよ?それより病院に行って下さいね。』と言って頂き、一段落してので安堵して、そのまま堕ちました。
困った事に担当医は、今週末学会出張なんです。それでも当直の先生が代わりに息子の相手をしれくれました。
そうして、私は、自分が健常者出ない事を、改めて、思い知るのです。回復と言っても、もう健常者レベルには戻らないのを知るのです。
もう、子ども達に申し訳ない、とか、親に申し訳ない、とか、思い詰める次元を超えるかどうかの出来事でもありました。
今は、鎮静剤の利き目がどうにか切れて、こうしてボーって。
気分転換に気分を晴らしたくて、ピグちゃんをちょこっとだけ若くて可愛くしました。
かつての私だ・・・(///∇//)
私にも、お嬢さんの時、あったんだよ~♪
ホント、従順っていうか大人たちを見て育ったんですね・・・祖父母を早く亡くして末弟の父が、伯母やその家族たちの面倒を見ていたので、その背中を見て育った私は、知らないうちに、『恋愛とか結婚とかじゃなく、同じ道を進むんだろうなあ・・・』って、当時は思ってた。
世の中に出て、ジェンダー(社会的性差)の色んな壁に阻まれて、身内からも『お父さんを継ぐ事なんて出来るわけない』と、全くの非協力。伯母たちがそうだったからでしょうね。
事実、弟よりは秀でていたけれど、社会が許さない時代でした。
・・・それが蓄積されて、それでも抗って、こうなっちゃいました(///∇//)
あの時、天に召されていたら、今はいなかった娘も今年はたちになります。
成人式もお金がかかるから要らない、っていいます。それよりそれで好きな事一緒にしよう、って言います。
あの優しい、娘に戻って来てくれました。受験はある意味家族ががりの戦争みたいなもんだから、リソースが無い我が家は(親戚知人に全く頼らないので・・・嫉妬で凄い言われるんだよ・・・)知らないうちにストレスが蓄積されていたのだと思います。
でも、今日の事で、ちょっと吹っ切れました。唯一の理解者だった今は亡き父は、『もう充分、頑張った』と言ってくれると思います。
父も晩年、会社から『途中で倒れられたら心配で困るんです』というくらい、病気を押して、ギリギリまで仕事を続けていました。
私はそれも見ていたからです。子ども達の健康を慮って、臨終には立ち会えなかったけれど、病院から子ども達を実家に連れて帰る時、直感で覚悟をしていました。
もう意識がなく、あえいでいた父に、『また来るね♪』両手を娘と息子に握らせ、耳もとで『お父さんが期待していた勉学、ずっとなんかの形で続けるからね。』が最期にかけた言葉です。
そうして、帰って来る父のために、家で一番上等な御布団を敷き、ずっとずっと帰って来るのを待って居ました。お姉ちゃんは疲れて寝てしまったけど、息子はずっとずっと大人顔負けで一緒に待っていました。
想いが強いと身体が動くもんです。でも・・・今日の事で、自分の加齢を認知し、命のエネルギーもかつてほどない事も認知しました。
だから、一番の願いとしては、学術界に戻りたいんです。でもどうにもならない事情が許さない。どこまで神様は試練を与えるんだ、と、そう思いました。
小学生の時、絵しか知らない私に、菅原道真公の歌『東風吹かば~・・・』を教えてくれたのは父です。東風を「こち」と読むのを覚えました。初めて和歌にふれました。命を想う歌です。
私の本名には花の名前が入っています。父の名前には樹木の名前が入っています。あれが和歌を通じた継承だとなんとなくぼや~んと解っていて、今は父亡き後、奇しくも京都への御縁が降ってわいたこと、不思議な導きのように思っています。
本来、今日は身体が動いたら、天神さんの日(25日)なので、お参りに行こうかと思っていました。実現しませんでしたけれど、近いうちに行けたら、と思います。
みなさまには、本来なら、楽しい楽しいブログだけにした方が、いいんだろう、っと思っていました。書けない自分を責めていました。私のブログは決して、呑気には書けない人生だから、重たすぎるから、読者さんには・・・これでいいのかなあ・・・ってずっとずっと思っていました。
楽しい事だけを書くべきだよ。ネガティブしこうは良くない、と言われた事もあります。その言葉に囚われて、書けなかったし、辛かった。
ネガティブとポジティブは切り離せない。私は嘘をつけない。ネガティブとされる事が多いから、小さな小さな小さなポジティブが、神様からの素敵な贈りモノのように感じる。
私・・・そんな強欲じゃないよ。
今日たのしんでいる頃、どこかで究極な状態にある人がいる現実。呑気になれないんだ・・・。
病気や色んな事で苦しんでいる人がいる現実、僅かな時間だけでも、緩和されていただきたくて、ただ、祷るしかない。
めっちゃビックリしました。
みるみるうちに感覚過敏、特に聴覚! どんな音もパニックの原因。
扇風機の音、生活音、御近所の奥様の音、小学生の怪獣登校の音、まーちゃんの遊んでカサカサの音。
そして感覚も超過敏。お布団に横になった時に腰への布団の圧迫が強い苦痛となる。もう蒸し暑いので、やっぱり扇風機、と思ったら、その風がまた、パニック、パニック。
月経痛も激痛。お腹の動きも激痛。もうおかしくなって錯乱しちゃって、ついでに息苦しくなって、心臓も痛い!!!ついにトイレの壁に「助けて!!!!(この激痛のオンパレードから)」って頭を打ちつけてしまいました。(久しぶりにやってしまった・・・)
今日はプライベイトで一生に一度あるかないかの重責を伴う事があって、子どもではまだまだ出来ないから、代行も頼めない。ずっと孤高に向き合うしかなかったんです。相談する親族も知人もいなかったので、ずっと抱えていました。
で、そんな発作。 慌ててコンスタンを頓服3錠!!!(←医師の許可を貰って下さいね!)
あわわわ、ってなりながら、一生懸命、絞り出す私の声に反応して、携帯で京大病院とかかりつけの病院と、福祉事務所と、法曹担当者へ、息子は拙いけれども一生懸命連絡してくれました。
最後だけは難しそうだったので、薬がなんとなく効いてきて亜昏睡になっている私が代わりました。「・・・つたわって・・・・ますか・・・・?」
『大丈夫ですよ?それより病院に行って下さいね。』と言って頂き、一段落してので安堵して、そのまま堕ちました。
困った事に担当医は、今週末学会出張なんです。それでも当直の先生が代わりに息子の相手をしれくれました。
そうして、私は、自分が健常者出ない事を、改めて、思い知るのです。回復と言っても、もう健常者レベルには戻らないのを知るのです。
もう、子ども達に申し訳ない、とか、親に申し訳ない、とか、思い詰める次元を超えるかどうかの出来事でもありました。
今は、鎮静剤の利き目がどうにか切れて、こうしてボーって。
気分転換に気分を晴らしたくて、ピグちゃんをちょこっとだけ若くて可愛くしました。
かつての私だ・・・(///∇//)
私にも、お嬢さんの時、あったんだよ~♪
ホント、従順っていうか大人たちを見て育ったんですね・・・祖父母を早く亡くして末弟の父が、伯母やその家族たちの面倒を見ていたので、その背中を見て育った私は、知らないうちに、『恋愛とか結婚とかじゃなく、同じ道を進むんだろうなあ・・・』って、当時は思ってた。
世の中に出て、ジェンダー(社会的性差)の色んな壁に阻まれて、身内からも『お父さんを継ぐ事なんて出来るわけない』と、全くの非協力。伯母たちがそうだったからでしょうね。
事実、弟よりは秀でていたけれど、社会が許さない時代でした。
・・・それが蓄積されて、それでも抗って、こうなっちゃいました(///∇//)
あの時、天に召されていたら、今はいなかった娘も今年はたちになります。
成人式もお金がかかるから要らない、っていいます。それよりそれで好きな事一緒にしよう、って言います。
あの優しい、娘に戻って来てくれました。受験はある意味家族ががりの戦争みたいなもんだから、リソースが無い我が家は(親戚知人に全く頼らないので・・・嫉妬で凄い言われるんだよ・・・)知らないうちにストレスが蓄積されていたのだと思います。
でも、今日の事で、ちょっと吹っ切れました。唯一の理解者だった今は亡き父は、『もう充分、頑張った』と言ってくれると思います。
父も晩年、会社から『途中で倒れられたら心配で困るんです』というくらい、病気を押して、ギリギリまで仕事を続けていました。
私はそれも見ていたからです。子ども達の健康を慮って、臨終には立ち会えなかったけれど、病院から子ども達を実家に連れて帰る時、直感で覚悟をしていました。
もう意識がなく、あえいでいた父に、『また来るね♪』両手を娘と息子に握らせ、耳もとで『お父さんが期待していた勉学、ずっとなんかの形で続けるからね。』が最期にかけた言葉です。
そうして、帰って来る父のために、家で一番上等な御布団を敷き、ずっとずっと帰って来るのを待って居ました。お姉ちゃんは疲れて寝てしまったけど、息子はずっとずっと大人顔負けで一緒に待っていました。
想いが強いと身体が動くもんです。でも・・・今日の事で、自分の加齢を認知し、命のエネルギーもかつてほどない事も認知しました。
だから、一番の願いとしては、学術界に戻りたいんです。でもどうにもならない事情が許さない。どこまで神様は試練を与えるんだ、と、そう思いました。
小学生の時、絵しか知らない私に、菅原道真公の歌『東風吹かば~・・・』を教えてくれたのは父です。東風を「こち」と読むのを覚えました。初めて和歌にふれました。命を想う歌です。
私の本名には花の名前が入っています。父の名前には樹木の名前が入っています。あれが和歌を通じた継承だとなんとなくぼや~んと解っていて、今は父亡き後、奇しくも京都への御縁が降ってわいたこと、不思議な導きのように思っています。
本来、今日は身体が動いたら、天神さんの日(25日)なので、お参りに行こうかと思っていました。実現しませんでしたけれど、近いうちに行けたら、と思います。
みなさまには、本来なら、楽しい楽しいブログだけにした方が、いいんだろう、っと思っていました。書けない自分を責めていました。私のブログは決して、呑気には書けない人生だから、重たすぎるから、読者さんには・・・これでいいのかなあ・・・ってずっとずっと思っていました。
楽しい事だけを書くべきだよ。ネガティブしこうは良くない、と言われた事もあります。その言葉に囚われて、書けなかったし、辛かった。
ネガティブとポジティブは切り離せない。私は嘘をつけない。ネガティブとされる事が多いから、小さな小さな小さなポジティブが、神様からの素敵な贈りモノのように感じる。
私・・・そんな強欲じゃないよ。
今日たのしんでいる頃、どこかで究極な状態にある人がいる現実。呑気になれないんだ・・・。
病気や色んな事で苦しんでいる人がいる現実、僅かな時間だけでも、緩和されていただきたくて、ただ、祷るしかない。