羨ましかった | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

 
 
何でも出来なきゃいけなかった。
 
 
何も投資されずに。
 
 
周りの優秀な子をくまなく例に出して、
 
 
人数分だけ叱られた。
 
 
人数分だけ劣っている側面が顕になり、
 
 
私は存在価値が無いとされた。
 
 
他のいとこには甘く、いとこが帰ったら『ああはなるな。本当はきょうだい達は気を揉んでいるに違いない。よくあんな状態で平気なもんだ。』も常だった。
 
 
こういう言葉を聴いて私はまた思ってしまった。
 
 
『おばさんたちも私が帰ってから何かを言っているのかもしれない』と。
 
 
ご近所の井戸端会議で話題になっている奥さんがいる。
 
 
たまたまその奥さんなだけで、たまたま私だったら私なんじゃないのだろうか、って。
 
 
PTAでもそう。家の用事で先においとまさせていただいた人の事を、残った取り纏めというか、影のボスみたいな誰かのお母さんが言い、取り巻きが迎合していた。
 
 
もし、私が先だったら、私がそう言われていたのかもしれない、と。
 
 
もちろん最近は皆仕事なり介護なり育児なり何がしか抱えてる。
 
集まれただけでも凄い。
 
 
そうして前年度からの引き継ぎだけでいいなら大した打ち合わせは要らず、ものの30分で住むし、
 
今ごろはネット社会だからメールに直接書いたら、家の事の合間に出来る。
 
 
その為に通信があって、その為に言語があるんじゃないの?って。
 
 
だから、ダラダラしなくても、ベッタリしなくても、済むはず。
 
 
けれど本当は、寄り合いのせいにして、家の事から逃げる人がいるのも知ってる。
 
 
言い訳をする人がいっぱいいるのを知っている。
 
 
つまり…
 
 
私だけ何故それらを許されなかったの?
 
 
と昔の両親に問いたい。
 
 
問いたいが、問うたところで、通じなかったろう…
 
 
『この子は何を言ってるのか解らない。』と。
 
 
そうして決めつけられる。『(きっと頭がおかしかったり悪いから訳の解らない事を言うんだ。)勉強だけしていればいい!』
 
 
通じなかった時に、理由がたった一つにされ、そうしてその内容は、
 
 
必ず私が頭が悪いから、だった。
 
 
進学校に行ってもっと競争が激しくなり毎日朝方まで予習復習をし、
 
現役で国公立大学に行く、それ以外は親不孝、という枷をはめられた。
 
 
目標が高いから毎度毎度凄い言葉で罵倒される。それでも食らいついて行く以外は、一生取り返しの付かない親不孝だ、と。
 
 
そんな世界に子ども達を追い込みたくなくて、私は学びをじっくり行いたいけれども、
 
世で言う有名大学の附属幼稚園の受験や、小学校や中学、高校の受験に、詰め込み主義的な熱心さは持たないように努力した。
 
 
けれど一旦凝り固まった概念は頑強で、つまり頑固で自分の意見こそが唯一正しくて崇高などと勘違いしている人は、
 
端から見れば衰退の一歩で、そうなると私が育った概念を子どもにそのまま送っている親が多い、という事。
 
 
それで怖くなる。
 
 
周りには競争しか無かった。親戚同士、実は子どもの学歴や職歴を意識してた。
 
間違えて名の通った大学に行ったもんなら、皆で自慢して、またまた勘違いしていく。
 
 
私はその親戚の『見返したる』的な発想が、より子どもを追い詰める事になりかねないと考え、
 
親に当時の風潮に刷り込まれた自分のコンプレックスを先ずは解消する事が先決だ、と、
 
大学を受け直した。もちろん今度は奨学金を貸与していただいて。
 
 
一旦社会に出たからこそ、そのまま学生で上がった若い子達とは違った感性が互いにインスパイアされてヨカッタと振り返っている。
 
学費を頼ったから色々言われた。今度は言われない。それが幸せだった。
 
 
親が寂しくて寄ってくる。説明しても解るはずなんてない。
 
ただ構って欲しいんだ。
 
 
そう感じると何だか悲哀というか…
 
 
誰かに構って貰えて沢山甘やかされて沢山宛がわれている人を羨ましく思ってた。
 
 
それは私がレアな生き方をしてきたから。
 
時代の先を生きてたから。
 
 
フツーのオバサンがそんな生き方をしているなんて思わないよね。
 
ステレオタイプの研究者が皆さんお好みだから、支持するから。
 
 
だから、私は時に混乱して、パニックを起こして、生きる事が怖くなる。
 
 
私は生きたい私と、求められている私が著しく解離していると、感じてしまったら強い不安に陥るので、
 
安定剤でふわふわさせて『ま、いっか』に自分を持って行く。
 
そうすると意味の無い罪悪感から少しだけ解放される。
 
 
親の論理を整理したら完璧じゃない人間は存在価値がない、になってしまう。
 
 
期待に応えられない自分を容認したい。