全部無かったらいいのに、
辛い時はよくそう思います。
私はかつてメディアに取り上げていただいた事があります。
取材は受けますが、それから後の編集に関わる事は出来ません。
出来上がって世の中にブロードキャストされたものは、
内容も解釈が違ったし、
数々取材した中でぺーぺーの私が取り上げられたら、
指導教官や主治医の目の届かないところで、
それは難儀な嫉妬に遭いました。
たかだかカメラじゃないですか、私も研究意図が間違って伝えられていて困っています…は、
相手が年長のみならず、
私は36歳で一回りくらい下の人までが先輩の縦社会に入ってしまいましたから、
本業以外にこれでもか!いやいやまだ足りない!とゴールも正解もない気の遣いを当たり前にしないとイケナイ場にいたのです。
そりゃ、ノイローゼになります。
にもかかわらず相変わらず古い体質の根性論の潜在下で男尊女卑やジェンダーの問題を抱えているにも関わらず、
意識していない、つまりどのような配慮が時々刻々と変化する状況下に於て適切かつ過不足無く必要であるか、計算・判断できない人は、
『この厳しい世の中で生き抜くのに考え抜いて生きていないのか

おそらくなんだかんだで社会的に恵まれていて、呑気で暮らせて来た、瞬時に搾取されたり、陥れられたり、差別されたり、軽んじられたりして来なかった人なんだろうなぁ、と考えてしまいます。
なんのこっちゃないトラウマです。
私は幼少期、頭が悪く、気も利かず、容姿も悪く、存在価値が無いと言われて育ちました。
親に愛されない、あるいはかなり厳しい条件付きの受け入れは、戦争中の兵隊の様にも思いました。
体が弱い事も罵倒されました。
すべてすべては私が自慢の娘では無かったからです。
私はそれが解らず傍若無人な側面のある姻族の中で母が苦労しているのを知っていましたから、勉強を頑張って喜んでもらおうとしました。
離婚しても実家を頼らず大学院受験を果たしました。
一生懸命真面目に生きてさえいれば神様も認めてくれるし、そのように頑張っている人に人は心を打たれないはずはない、という母の言葉を信じて。
でも助けて下さったのは他人様でした。
指導教官および周りのみなさんでした。
あるとき母は突然電話口でいいました。
生まれてすぐにどちらかというと懇切丁寧な育児は不器用で、私も別段それは仕方ない事だと思っていたら、
私がこの生育状況で進学したのを一番嫉妬していたのは母でした。
病気で自分より下にみなすと優しい。
意見が違ったり自分の意志を持つとどこで覚えたのか解らないような辛辣で小汚ない言葉を使って罵倒する。
つまり私はいつまでも母にとって都合のいい、母にとって素直な、自我を持たない迎合する娘でない場合は、
とたんに他人以上に憎まれるのです。
それは家族故なのか、私の家族が奇異なのかは解っていません。
解っているのは母方の祖父は兵隊で下っ腹で、還って来ても、心のケアなんてなく、どこか不思議な人になっていました。
孫たちの中で私にだけつねったりする人でした。
この事は今でも母には黙っています。
母がパニックを起こしたり常軌を逸している時の眼は、あの時の祖父とそっくりで私は怖いです。
父と父の家族は何の理由か知りませんが、育ちがどうだの家系がどうだので、母方から差別されたり虐げられたりしていました。
私はお父さん子だったわけではないけれど容姿が似ていたので、母方の親戚からは大変辛く当たられました。
弟は母方に似ていたので、どれだけ素行が悪くても怠惰でも受け入れられています。
だから私は昔から存在意義なんて考えて来なかった。考えたらそれこそ消えなければなりません。
思春期の頃は勤勉でありながらも、ずっと死にたかった。
私だって生きてるだけで愛されたかった。
だから病気や障害に対して偏見(誤解)を持っている母は、私や娘の事は受け入れられず、
自閉的だけれど幼くて母の思う甘え方をする息子はかわいいのだと思います。
ある時、恋人のように息子に絡まる母を見て、血の気が引いたのを思い出します。
女性を捨てろとはいいませんが、いつまでも、母≪女なのは、息子が嫌がる概念なので、満開・炸裂しないで、節度をもってほしいと思いました。
何故なら私をそう厳しく躾したのは他の誰でもない母だからです。
もっと父に大切にされたくて守ってもらいたかったんでしょうね、母も。
ほんにこの世で女は生きにくい…と思う私でした。
頭が動かなくてこれだもんなぁ~…
なんだかやってられない気持ちがこれまでの自分を襲うので、安定剤服用してしばし脳を休めます。
それではまた

