本来ならば、おひとりおひとりに御礼の言葉を直接申し上げるべきところ、
ブログの更新とさせていただくことを、どうか御赦しください。
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以下は、メンタルな話題に苦手な人はスル―してください。
6年前、私は学生でした。大学院生で、外部資金、つまり大学から分配される予算ではなく、正規に申しこんで研究計画に期待を寄せていただいて、片手で数えられるほどの予算をいただきました。
けれども学内の審査では悉くレベルの高い同期生達に敗れ、その予算は獲得できた経験が無かったため、初めてで嬉しかったと同時に責任の重圧で「この予算でこんなに神経を遣うとは・・・」と思いつつも一生懸命研究していました。もう季節性の鬱病は発症していました。
けれど予算を正しい使い道で執行しなければ業務上横領になってしまいます。神経ピリピリです。
その予算への報告書は3月でよいとの事なので、毎年三月に業界の古株~若手(4回生)までがこぞって集う学会への論文投稿と発表にて成果にしていただくことになりました。
勿論、親戚中で大学院に行ったのは私だけです。勿論、学生支援機構に助けていただいての事です。
自分で借金を背負って進学すると本当に気合いが入ります。
昨今はご家庭の事情が厳しいので親御さんがいらしても学生支援機構に貸与していただき顕著な業績を挙げると減免されるので、そりゃ競争的資金と同じになります。みんな必死です。
その論文を体調が悪い中執筆していました。論文がもし採択されても飛行機どうしよう、という状態でした。(その時以来、飛行機は未だ乗れません・・・)
で、6年前の今日、丁度この時間に、実家から電話がありました。
小さい時、いつも一緒に遊んでいた従兄が二人いるのですが、そのうちの下の従兄(4つ上)が、自殺した、と。
地元では名所という事でした。頸部を切りつけて失血死でした。部位があってて深いと、ものの10秒で意識がなくなります。
従兄は精神疾患を抱えていました。正式名称は知りません。田舎なので偏見があったのでしょう。
ちゃんと病院に通っているか甚だ疑問でした。けれど昔堅気で怖い怖い伯父には、誰も意見できません。
奥さんも末っ子で全部、親きょうだいにしてもらってきた何も出来ないどこかのお嬢さんでしたから、お金で誰かを雇ってしてもらうことはできても、
自らが勉強して従兄を誘導する事はついに叶いませんでした。
他にも伏線はたくさんあるのですが、ここでは割愛します。
アルコールに依存するようになっていきました。依存症とまではいかないですが、容姿をとても気にする奥さんだったので、
中年太りになってきている旦那である従兄を嫌がったのでしょう。
脳出血で介護が必要な伯母の面倒を見ないことを約束に、見合いで結婚しました。
伯父も裕福だったので、毎日家政婦さんを雇って成立していました。
従兄は一人っ子のお母さん子。脳出血で奇行(ずっと包丁でないものを切っている)になっているのに気付き病院を手配したのは従兄です。
その伯母は従兄の結婚をとても楽しみにしていたのですが、従兄が心底恋焦がれていた人とは遂に御縁がありませんでした。
それでお見合いをしたのですが、そのような条件だったのを、私は怪訝に思っていましたが、人それぞれだし、本人がそれでいいのなら何も言えないし、何より伯父がそういう人でしたから。
で、色々あって、前日に奥さんが従兄に離婚を切り出したのだそうです。
従兄は生育上、人とのお別れがダメなんですね。将来を悲観して、車で出かけて行って帰らなかったのだそうです。
そうして発見されたのが、6年前の私の誕生日。
まず私の性格を知りながら連絡してきた母に憤りを感じました。パニックを起こしたのだと思います。論文執筆中だったので徹夜続きでしたから。色んな事を緻密に考えて執筆しないと「この程度の学生って○○先生も落ちたもんだ・・・」という言われかねない風潮が当時ありましたから。(事実として、履修単位が少ないゆとり教育世代が入学してくる前です。)
そうして、そのまま「ごめん、お母さん、ちょっと気分転換に出てくる」と子ども達に告げ、聴かせられないし、私の混乱した姿を見せて不安にさせられないし(不登校が始まっていたので)、
と、公衆電話を探して、実家に掛け直しました。電話BOXで声をあげて泣きました。
どうして同じ疾患をしているのに救えなかったんだろう・・・
希死念慮のある私がこうして生きていて、どうして普段頑張っていたお従兄ちゃんが、私の子ども達と同い年の子ども達を遺して行かなければならなかったんだろう・・
・・・するとその様子に母もパニックを起こしたのでしょう。「知らんやん!(亡くなった)お父さんの方の甥っ子や!私には関係あらへん!!行かないとウルサイから連絡しただけや!!!」とう言葉が返って来ました。
その言葉に茫然として、私は電話を切るとともに、母に対して完全に心を閉ざしました。
トボトボと帰りながら涙をふいて、子ども達に悟られないようにしました。
すぐさま指導教官に連絡して、正直に申し上げて、もう一つ二つ欠席しても大丈夫そうな仕事があったんですけれど、
懇切低頭丁寧に、担当の人とその指導教官さんに同報して、真に申し訳ありません。と。
その御断りさえ何だか時期的にみなさんピリピリしていましたから、とても辛かったです。
以来、私は・・・自分の誕生日が近くなると乖離というかパニックと言うか、サバイバーズギルトというか、解らなくなるようになりました。
子ども達のためには生きていないとイケない。でも生きていても病気が悪化してきておそらく普通にできる事も、今かかえている仕事が一段落して猶予をいただいたら、一気に倒れてしまって、
退行もしてしまって(実は重たい鬱病は離婚後と父が亡くなったすぐ後に起こしてしまっています)、どうなるか解らない・・・という不安と。
そうしてそんな状態をたとえ母親であっても理解できない場合があると、自分の親子関係で解っているので、実母にも頼らないし甘えない、甘えられない。
それでも、 ようやく今年になって、誕生日の月は月初不安で、それから混乱していくのですが、まあ、昨日も乖離混乱状態に身体がなってしまったので、相当ショックでしたが、
これまでよりはなんというかやわらかい感覚になっている事に気付いたんです。3週間前から担当医には、行ってます。もしかしたら言うことで余計に意識されちゃって、また戻るかな、と思ったのですが、そうでもありませんでした。
もっともっともっと、安定剤に依存していたし、受験も何年も重なっていたし、自分の仕事も大学関係だから、この時期は本当に予算の大きい大学は皆さんに期待されているという事でもあるし、
・・・大変でした(^▽^;) ←なんでピンクやねんっ☆
まあ、今日も実は、歯医者さんにあれだけパニックでいったのに(息子は起きられませんでした^^;)、老眼から診間違えた色素沈着でした。ヤギセンセーが「先月診たところやのに、どないしたん?なにがあったん?どれどれみせて♪」っていうてくれはって、
「老眼になったんですねえ・・・恥ずかしいわぁ」『僕もやで。これ遠近両用やで。』「へぇ~・・・そうなんですか。実は今日誕生日だから、安心をもらって有難いです♪」『それはおめでとう♪』「ありがとうございます。もう歳は言いたないけど^^;」『ははは☆それはお互いさまや♪』って会話が出来ました。
怖いよ~、ついてきてくれなかったよ~!!は、待合の小学生くんとお母さんが帰られてから放ちました。←ちょこっとええかっこしい^^;
で、私にとってはある時権威の象徴で不登校となってしまった京大の修了証書を一年振りに100均の、ショッキングピンクの額縁にいれまして、ジェル状のぷにぷに可愛いハートでデコりました



それが出来るようになったよ~!って意味で実家の母に写メ送ったのですが、
『なんやの? 突然。 修了ってナニ? 別に普通の誕生日やろ?』って。
・・・やっぱりそれこそ乖離しているなあ・・・・と悶々してまた意識がぶっとびました。
で、寝ている間に思考が整理できたのでしょう。
①送った意味は回復の意味で学歴を誇示したわけではない事を理解してほしい
②普通の誕生日は生きているから歳が増えるのであって、普通が普通では無く有難いと思えないのは私は理解できない
③やっと従兄の事を、うっすらと薄氷くらいやけど混乱しなくなった
が伝えたかった事です。読みとってくれると思ったらアカンな。親子でもな。
って、やっとこの歳になって、怖い怖い完璧主義者の母に、自分の気持ちを言える事が出来ました。
彼女はずっと一方通行でした。おそらく自閉の遺伝は30%だし、それに惹かれて一緒になる組み合わせも統計上の数字をある程度知っているので、両親ともに素因はあったのだろうと思います。
両親から受け継いだ素因を、両親ともから否定され続けて来ました。それは両親が持つ偏見だと思います。偏見を顕にすることに対して、何の配慮も無い、無頓着な人でした。
・・・悩まない人に鬱病になったり長くなる人はいません、って。
嫌いな所は褒めてほしい所というスミレとぉちゃんの解釈も違います。少なくとも私には該当しません。
嫌いや、嫌いや、と、ずっと両親に言われて育って、親が言うたことやから、ずっと刷り込まれて、本当に自分の身体を切り刻んで獲り出したいくらい嫌いな部分です。自分で受け容れられないのは、親の価値観が強く刷り込まれているからです。完璧主義者の両親でしたから、私はほぼ私を全否定します。だから自殺したくなるんです。
「なんで産んだん!」って言うてはいけないと、昔テレビで言うてはったので、言うてません。
けれど、本当に言いたいのは、「なんで産んだん!って言いたくもなるくらい、どうして精神的に追い詰めるん!!!」だと思います。
子どもだったから、言葉も持って居なかったし、親に怯えて言い返せなかった。
親が育ててくれなかったら、命が無いことくらい、本能的に子どもは知っています。
だから、娘にも、大学受験にそこまで必死にならんでいい、まずは身体、とずっと言ってました。それは病気をしたから解った、沁みたことです。
けれど、彼女も外に出ればフツーというなの、実は政治経済に迎合する事を強迫されている事実に、潰れました。
生きて帰って来てヨカッタです。お従兄ちゃんは、奥さんの理想通りじゃなかったから離婚を言い渡されたんです。・・・アホか。
そこまでして、親の期待に応えやんとアカンことなんて何もあらへん!!!
だから私はそういう意味で期待はしません。だからされたくもない。
自分の期待は自分で応えるものです。だれかに叶えてもらうもんやない。
それでも引き受けられる器のあるお子さんは叶えてくれるでしょう。
けれど、それが本当に芯からの本人から出てくるものじゃないと、いつか心が路頭に迷う気がします。
いえ、迷いました、私が(;^_^A
47年かかって(←歳書いてもた!)、やっと親に本心を言えた。
色んな力で制圧されていたもん・・・。
私にとっては結婚もそうだったから、「ごめんなさい、これ以上できません」ってしました。
旦那が叶えたい事は、旦那が叶えるもんです。旦那のお母さんが叶えたい事は、旦那のお母さんが旦那に乗せることなく、自分で叶えるものだったと、今でもそれだけは私は思っています。
だから、オバサンになっても、私は親に全否定された学歴を塗り替えたかったから自分で入り直しました。
もう親に頼らなくなった状態で。
返還猶予の時期が今でも国会で検討されていますが、早く病気治さないと。
そう思うのは、制度が今の時代に合ってない一方的な皮算用だからです。
みんなそれぞれ事情がある!!!
メダルの数をカウントするのって、だから好きじゃない。
政治的に使われている側面知っているけどね・・・個人的には好きじゃない。
https://tokyo2020.jp/jp/olympics/
丁度、日本の「オリンピック運動の父」は、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長であり、柔道の普及に努めた嘉納治五郎さんについて、息子の単位取得の単元内容に出典されたいたので、繋がりました。
そして、このブログ記事の最後に、『~これまでの事、これからの事~』とうサブタイトルについて書きます。
これまで、つい最近まで、『~これまでの事』に想いは馳せても、『これからの事~』に想いが向きませんでした。ほぼ全くです。今も完全移行できていません。けれど、サブタイトルにこうして書けるくらいには、回復しました。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
先月ヤギセンセーに「こうしといたら、一年後ちょうどよぉなってるわ♪」って言われて、
(・・・センセー、私に、一年後、って言わはった・・・もしかしたら、来年、生きている可能性もあるんかなぁ・・・)ってちょっと思って、何とも不思議なふわふわしたキツネにつままれたような、そんな感覚になりました。
そうして今を迎えています。
こうしてブログを書ける事にも感謝

関わってくださり、好意的に受け取って下さる総てのみなさまへ

ありがとう、ホンマに、ありがとう

