ありません?

ふ、と。

『わたし、いま、これやってるけど、いっしょうけんめいやってるけど、

・・・・”なんだか、なにやってるんだろう・・・”』ってカンジ。


ここのところ、そんなカンジ。


例えば、家に居るでしょう?


家具や雑貨があるでしょう?


”ホントに欲しくて求めたものかなぁ”って。


もちろん求めたときは、一生懸命考えたんだよ?


考えたんだけど、全てと心の距離が出来てしまったカンジで。


いつの間にか。


そうするうち、『ずっと、なにやってたんだろう・・・』って感覚になって。


リアルに限りなく近い夢を見ていたのかなぁ・・・っていうか。


勘違いというようなチープなものじゃない。それは言える。それだけに、


ずっとずっと気付かなかった思わなかった信じていた感覚。


『きっと自分の鍛錬が足りないから、境地に立てないだけで、未だ未だだ。』ってずっと思っていたし、信じてた。


そういうんじゃない。そういうんじゃないんです。


『もしかして、そりが合わないくらい、異次元なくらい、異質すぎるくらいなのに、頑張ればどうにかなる、という旧い根性論や精神論みたいなものに閉じ込められていたせいで、


というただ徒労なだけの事をずっとしていたんじゃないかな・・・』


・・・って気付いてしまった。


私は昔から、気付いてしまったものを気付きたく無い、無かったことにする癖があります。


周囲から奇異な目で見られていたからです。そう旧い価値観が頑強で。


見えないモノを感じるとか、予感がするとか、例えば、天災が起こる前は、地熱のようなものを感じて眠れないとか(後で海外の大きな天災、特に地震のニュースを聴くとか。)、


だから自分を曲げます。歪めます。閃きに嘘をつきます。到底信じて貰えた事がないからです。


けれど、本当の自分は、『気付いたものは気付かなかった事にできない』んです。


そういう意味です。私にとっての”光陰矢のごとし”は。


色んな発想で、タイムマシーンにあたかも乗ったような感覚になれるモノは多いです。歴史を学んでも良いし、再現してもいいし、旧い歌を歌っても良いし、演奏しても良い。イメージしたものでもいいし、アーカイブもある。記録媒体が発明された時から(古くは石板ですよね)、


擬似的に太古に行けるんです。


そういう意味じゃないんです。私のTIME WATES NOBODY.は。


『気付いちゃった』『理解してしまった』『見抜いてしまった』などなどです・・・


解った事を解らなかったフリをする事に、結構頑張るんです。何十年と。


でも、頑張り過ぎて、自分に嘘をつき過ぎて、護り過ぎて、そう、心がボロボロになる。


それが解っても、まだ頑張りますし、踏ん張ります。


ホントは気付いてしまっていても。その人、その人の真実を守るために。


でも・・・・・・・・今回は生まれて初めての感覚に近い程度で、


そんな自分に心底疲れきってしまったんです。


理系を論理的と乱暴な思考で収束させる人と会話なんて最初から通じていない。


医者や科学者や技術者と話をするのが楽なのは、そのせいです。


昨日もふと、歩きながら考えました。


『どうして数直線は、右に進むとされているんだろう?』と当り前に疑問をもちました。


鍵盤楽器や弦楽器も右に進むとキーが高くなる。縦に進む楽器は自分に近いほど高くなる。


誰がいったい決めたの?たぶん弦長が起因している。それは解っている。


じゃあ、鍵盤は?並びを逆にすれば、ハンマーでたたいて音を出すんだから、右が低音の楽器、作れる。

なのに、どうして右に進むかのように作られているの?


私なりの答えは簡単です。元々左利きだから。息子もそうだから。


「人口の殆どを占めている右利きの人の当り前に作られているだけだよ」


そうだよね。


そういう意味では、同じ医者でも科学者でも左利きの人と、特に話が合います(笑)


レア中のレア。だから、殆どの人とずっと合わせてきたんです。


「私たち友達だよね~♪」(え。そうだったの?)とか(笑)


「わ~♪よこしま☆さんと話すると楽しい!今度お茶しません?」(え、私は知りたいことはもう質問して終わったけど・・・)とか(笑)


ブログだってそうだよね。自分の好きな事を書いて、興味を持つ人が多いとアクセス数が多くなる。コメント数も多くなる。ランキングも高くなる。


それに迎合する人は、自分に嘘をついて、一般受けをするものを書いて、それを真実だとのたまう。


そんな、フレディ・マーキュリー的な表現をすれば、


『モンキー・ビジネス』だよ。


素直に書きました。不快に想われた人はごめんなさい。


それでは諦めていたけれど、今日は時間が遅れてスタートで間に合いそうなので、


卒業論文と修士論文の骨子の発表会に先輩として聴衆として行って来ます。


研究室は先生やスタッフを筆頭に、博士課程、修士課程、学部生まで全部包含しています。


学部生により高度の研究を見せる事が教育です。


学部生しか面倒をみていない人に、アドバイスをもらったことがあります。


(解って貰えていない・・・)と哀しくなりましたが、目上の方だったので「有難うございます」と申し上げました。


そういう所作が出来ても私はそれを学習で身につけたので、発達障害なのだそうです。


でも検査を作ったのは文系の心理学の人です。


心理学の人が、数理学の人を、心理学の尺度でどう推し量れるのでしょう?甚だ疑問です。


最近は正直に担当医に『あの設問の質、どうなんですかね・・・もはや現在に即していないテストになっていると思いますので、あまり気にしないでいいですか?』って。


そう、周囲にストレスを受けるので、混乱・錯乱して、安定剤を飲むんです。


適切な所作や言葉が交わされている時は、私は至って、順調です。


以上です。