発達障害者支援センター『かがやき』 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

今日は面談でした。存在は知っていました。でも、廃校になった小学校舎を利用している機関なので、権威的な場所が怖くなっていましたから、申し込む迄時間がかかりました。


私自身が心が折れるには伏線はいっぱいありました。


京大にギリギリで入れたのはいいけれど、国産車の軽自動車に乗っていた人が世界的なスポーツカーに乗ってしまったようなもんでした。


帰国子女当たり前。通訳が出来る程の技術英語は当たり前、国際会議もピンからキリまでありますが、世界的に著名な会議にしか、投稿さえ許されません。


それが京都大学で研究をするという事です。


もともと平和主義でじっくりゆっくりさんの私には大変難しい事でした。


こんな私でも家族の中では勉強家な方でしたので、いくら説明しても、私の身内は全く理解出来ませんでした。


相談出来る人は皆無でした。


そんな中で見知らぬ土地で子育てしながら一日も早く自立したいと研究に勤しんでいました。


けれど大学の研究職でなく、かつ、パートタイムジョブの人は、そんな事より誰と誰がひっついたとかに興味があったようで、

工学計は殆ど男性で、プロジェクト毎にメンバーは組まれるのですが、

どこに入っても一体何処にそんな噂が立つ火の種があるんですか?示して下さい、打ち上げが終わっても研究室に戻って続きをしているのに…


当然噂を立てる人は自分のタイミングで帰って自分のタイミングで自分の思うままに噂をさも見聞きしたように話すので、

同じ研究職でないパートタイムの人の中にはそれを信じてしまう人がいるんですねガーン


すると普通にご挨拶をしただけなのに嫌な顔をあからさまにして事務的に挨拶を返します。


そんな状況に神経をすり減らし疲れた時、スケジュール一杯で、一ヶ月のうちにヨーロッパ、アジア、国内の学術会議が入ってしまいました。


最後のアジアではボスが私と同じ目に遭っておいでだったんですね。

それを知る由もなかった私は、ボスのかつての部下の先生が連れてきた綺麗で我が儘な後輩ちゃんの面倒をみるお役割までついてしまって、

宿泊先で夜中の作業が出来ない環境になりました。


当日の発表はボロボロでした。つまり国際的にボスの顔を潰してしまった事になりました。


当時はそういう雰囲気が当たり前の状態でした。


ひとり宿泊先で申し訳なさすぎてこのままどうにかなってしまいたい…


鬱病が始まっていました。


帰国してから全ての権威的な場所、学校、大学病院、病院、公官庁…全てトラウマになりました。


そして能天気に噂話ばかりしている人も怖くなりました。


人が話し声が音が怖くなって行きました。


母子三人で完全なる引きこもりが始まりました。


奨学金を切り崩して生活していました。


実家とも合いませんでした。特に母。ミーハーが悪いとはいいませんが、それだけだったり、よく考えずに自分の価値観だけなのに、責任は逃れたいから困ると本当は介護も育児も放棄していたくせに、

あたかも良妻賢母に見せて自分がやりたくなかったり面倒だったり責任がかかる事から逃げました。


だから心ここにあらずで、自分を悲劇のヒロインの様に見せるのが得意です。


今日は月経です。お年頃だからでしょうか、周期が短くなってきていてキツイです。


初潮を迎えたあの日、学校では知識としてはあっても、さあ実際そうなると部位が部位なだけに病気になってしまったんじゃないか、と不安で胸が潰されそうでした。


でも母は私の二次成長を受け入れられなかったんだと思います。それは私のせいではないし制御できるモノでもないのに、

汚物の扱いを教えてくれる事も無く、ただただ私を嫌悪した目で見ました。


母は父の奥さんで私と弟が生まれているのに…


無言ではりつめた雰囲気の中、照れ隠しなのか本気で面倒だったのか知らないけれど、

そんな対応しか出来ないのに儀礼的にお赤飯を炊いて。


私は雰囲気に耐えられず食事が喉を通りませんでした。

母は『私がせっかく作ったのに食べられへんの!?』と怒鳴りました。


あれ以来、私は月経が受け入れられないんです。


私はお赤飯が欲しい訳じゃなかった。


『怖くないからね。あの赤ちゃんが…。無事生まれて来ただけでも有難い事だったのに、初潮を迎えられるって事は身体が成長してちゃんと機能しているんだねぇ。あの時あなたがあのまま亡くなってたら今日を迎える事は無かったんだね。生きててくれて有難う。』


と生きづらい特徴の私は、生きるために条件がいい人だけを褒めるのではなく、


まさに私は私のありのままを先ずは親に認めて貰いたかった。


そういうの無かった。


無いのが当たり前だったから、自分が傷ついたままな事、今日の今日まで気づかなかった。


正直にトラウマの事もお話して発達障害者支援センターの人は優しくじっくり真摯に対応してくれて、

やっと安心して、解ってくれる人がいるかもしれないと、泣きながら『今日は体調悪くてごめんなさい。お薬を飲んでも出先で倒れる可能性がかなり高いので、今日は辞退します。本当にすみません。』と言えました。

何十年かかったんだろう…


いろんなトラウマだらけなのにそのトラウマがある事自体を自己否定してた。


頑張れない自分を責めた。


けれど男女参画センターのスタッフさんは『勇気とかの問題じゃありません。通常や理想に惑わされないで。大丈夫です。一緒に探しましょう…と言って下さいました。


安定剤が効いてきたので(若干いつもより多め)無意識の世界に行って思考やトラウマを休めます。


鎮痛剤…はありません…ひ~んっ☆


実際に開腹手術しているから癒着部分がひきつって激痛なんだけど、

耐える以外無いんですハートブレイク



安全なペインクリニック無いもんですかね~…


という訳で墜ちます。(乱文失礼しましたm(__)m)