研究会議に出るという事。 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

今日はドクター(博士課程学生)の発表でした。大風呂敷を広げた発表には、静かに緻密に質問をしながら「本当にそれで満足しているんですか?その切り口で本当に研究に貢献できるんですか?」と諭します。

鼻っ柱ポッキーン!の洗礼です(^^;)

そこに至るまでに前提知識としては他の学生も持っているので、まさに言葉に真摯でなければ、人に真摯でなければ、研究に真摯でなければ、論破されます。

…って活字にすると堅苦しいですが、「人」の意図や行動には、それだけ本当に大切に考えているので、それくらいは当り前に議論します。

議論するくらいだから、前提として、「もう、脳細胞ちぎれちゃうよぅ。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。」ってくらい考えて来ないと話になりません。

なので、私は別のところでは普通の会話をしていますが、特に心理学を利用して、セミナーを世間でされていてそれをお仕事としている人の様子を見ていますが、

あたかも「正解はこれですよ!」とそれまでの正解が息苦しくて辛かったにも関わらず、依然として新たな権威的な正解を求めていて、それに対して結構な対価を払ってしまって、それが自分の中に価値あるものにしてすがっているようにしか映らないんです。(関係者の方ごめんなさい)

いつか新たなそれが息苦しくならない事を祈っていますが、いつの時代だって悩みは尽きないし、それは社会制度や健康や価値観の違いや、それらの状態によって増幅も軽減もするものです。

それは人さまから簡単に対価をいただいて、各地で宣教的に普及して救われる簡単なものでは無いと思っています。

例えば、話題にするにはちょっと心配ですが、キリスト教ってありますよね。それを日本で信仰している人がいるとしましょう。愛を唱えます。家族への愛、隣人への愛。素晴らしいと思います。

一方で、苦しい人はそれが有難いと思ってすがるでしょう。そこからが問題なんです。いつしかそれがぬるま湯になって、出れなくなってしまう。いつしか義務になってしまう。

そうしてまた堂々巡りにはなりませんか?と勝手に心配してしまうんです。

時期が来て、最悪の状態を脱したら、今度は自分が自立して、今大変な人にその器というか場を譲って差し上げる方がいいと私は考えているので、

例えば今流行りの心屋さん(いつまでブームか解りませんが)がバースト的に人気がある事を心配しています。

いつの世も栄枯盛衰ですから。傾倒し過ぎるのは反面危険でもあります。それに気付いて欲しいとは思っていますが、今ブームですから、おそらく私がそれを唱えたとして、

反発や反論が色々あるでしょうから、敢えて積極的に言わないだけです。

信じる人は信じたらいいと思います。それでその人が幸せならそれでいいんですから。

けれども、これがあるということは、それでは救われない人がいるという事実でもあるので、その人達に対しても「さぞかしそれがいいですよ」ということは一概に言えないのです。

・・・にも関わらず、それを言う人の何と多いことか!

私は自分の心は複雑だと思っています。物事はシンプルに考えた方がいいと一般的には言われています。

じゃあ、ただシンプルにしたら、それでいいのか、となると、シンプルにするデザインも設計も、適応先もあるので、

少なくとも私や私の周りには「それ、シンプル過ぎて、人を馬鹿にしてない?そんな事くらいもうとうに考えてそれでも問題が解決しないから、まだ考えているのに…。」です。

だから、「こうしましょう」ではなくて、まずは傾聴。そして個人差。

まあ、書籍で売れるというのは、マジョリティに合わせて書いているから起こっている現象なので、

心屋さんはうまく商売してはるな~、ってカンジです。

私の祖父は商売人でしたが、父も営業職でした。けれど、母方は経理畑ですし、私も学術の世界に足を踏み込んだので、

何かモノを売ってその売り上げで生きてはいません。ですから、このアプローチは語られれば語られるほど、私からは乖離していき、何とも不愉快になるのです。

例えば、馬にニンジンをぶら下げたらいいのかもしれませんが、私は馬ではないのでニンジンをぶら下げられても、「この人、一体何を私に理解してもらいたいの?」「何したいの?」としか思わないんです。

それらに対してうんうん考えた事を30人くらいの教授を筆頭に、博士号を持っている人や、それを狙っている人が、知識や社会での活きた調査をもとに、「本当にそう?」「それ驕っていない?」も含めて徹底的に話をします。

時々、台風の警報が発令されいてるのを忘れて議論しています。そういう意味ではアホですが、彼らは、考え過ぎなんて事は滅多にいいません。

まだ足りない、まだ考えが足りない、本当にそう?もうダメだ、ってくらい考え抜いた?が基礎なので、

割と多くの人から「考え過ぎ」と言われると、私のこれまでの存在意義が否定されたように感じ、何とも憤慨します。

こんな私が全然ついていけない概念で、しかも英語で議論です。

私は、研究職の先輩から、もし「考え過ぎ」と言われたら、「解りました。整理して、更に考えるべきところと、考えなくていいところを整理します。もし宜しければお忙しい中、お手数ですが、その結果をまた見ていただけますか?」と回答しますが、「では考えるのを総ての方面で緩めます。」というのは、とてもじゃないけれど、怖くて言えません。

それが解っているからこそ、先輩は教育者でもあり人を育てる部分がありますから、貴重な時間を下さるのです。素晴らしい人の時間を頂戴するのです。お金では買えません。ですから、その貴重な時間に見合うだけの、推敲・推考は必須なのです。

どうして、私が考え過ぎるように映るか。

それは私が考える人そのものだからです。

幼いころから、「考え過ぎ」と言われて育ちました。それが親だったり親戚だったり、人生の先輩だったりしたので、意見をいうのを遠慮してきましたが、もう親も亡くなったので時効にさせてください。

「アナタたちが考えなさすぎ!」「思考が乱暴すぎ!」と思ってずっと生きていました。

生きるのって、そんな簡単じゃないですよ。そんな能天気じゃないですよ。そりゃ、そうでもしないとやってられないのは解りますけれど、やっぱりその背後は考えて考えて動いて動いてで成り立っていると私は思っています。