
祗園小唄を思はせるやうな白川

二羽の鴨が独立の距離を取りつつ寄り添っている様子がいとをかし
歌に詠めればいいのだけれど、その様な才能は未だ育てて無いので今の私をそのまま書きました(苦笑)

ところ変わって太秦。
息子の引率です。
予期不安&&過度緊張により一睡もしていません。
我が身より大きくなった息子の引率は本人の意志も複雑な特徴もあるのでなかなか大変な事が多いです。
けれどもどうしてそれでも諦めないかというと、
息子を通じて新しい人たちや価値観に触れる事が出来るからです。
それにいきなり社会に放り出されるのではなく学校という教育機関という意味では、
京都大学であれ京都外国語大学であれ私は通ずる部分が多いと捉えているので、
不安しか無いか、というと、そうではないと答えます。だから、
なんだかんだ言って結局は教育…ここで言うのは狭義のそれではなく、人が関わるという広義を指します…機関に傾倒するのだと思います。
私の在籍していた研究室もつまりは『人』なんですよね。
人に敬意を払って知というものを中心に、学術的技術的にアプローチをかけているだけです。
インターフェースは皆さん物静かで物腰が柔らかいです。
内に秘めたものは熱いけれど周りとの温度差があると人は驚き時にそれがストレスとなる事も知っているので、
感情を抑えるためにも丁寧語が標準です。
ですので使う英語もブロークンなものは殆ど使いません。
研究発表となると奮闘しなければならないので自己顕示的な言い回しをする人は散見されますが、皆さんはおしなべて丁寧です。
私はずっとこれらに対する誤解を解きたかったのです。
私は理系だからって文系を否定なんてしていません。学術的に二律背反の概念は単元のひとつとして修得しますが、世の中全てをそう捉えてはいません。
心理学も生物学も、文学も…表層的になってしまって申し訳は無いのですが、真摯に修士課程の人が学ぶ位は自学自習を予めしておきます。
専門はたかだか問題に対する切り口と解放を外側から俯瞰した時に、説明しやすかったり理解してもらいやすい為や、自分が中でも得意とする領域であるに過ぎません。
この事と文字面からくるイメージとは全く世界観が違います。
それらを混同され続けて、最悪は上記の文字面からくるイメージを無理に宛がわれて大変大変息苦しい人生でした。
自分がどれほど息苦しい生き方を強いられて来たかを知りました。
競争原理に巻き込まれ引き込まれ、あたふたしているうちに覚悟が決まって、やる気を出して精進したら、それはそれで邪魔が入る。
どないやねん



って感じです。
でも、もし、この『どないやねん



私についているらしい文字面からくるイメージで、
『京大やから、って…』『シングルやから、って…』『発達障害やから、って…』と聞き入れない砦としても利用され、
結局はこちらが孤立するようにもっていかれる…
私が鴨のようなスタンスでない人間の皆様を苦手とするのは、こういう過去の経験、つまりトラウマからなんです。
もうそういう人へは近づかない。集団になれば尚の事。これから集団になろうとしている人へも少し警戒するかな。
パーソナルスペースの存在を遠い昔に知ってしまっているので(苦笑)
解りにくい文章かもしれませんね。でも、昨日、師匠である指導教官の意見に目から鱗でしたので。
『いいですか!?シンプルに言うのは大切な事です。けれど本当に難しい事は難しくしか言えないんです。堂々と自分で定義して発言して下さい。そうでないと話にならないので議論になんて到底なりません。』と。
そうなんですよね。真面目に真剣に考えているから知識獲得をしていくのは至極自然で健全な方向性。
この事と感受性が高かったりお人好しだったりその他とは別なんです。
なんでもかんでもシンプルに話をしてばかりじゃ、自分が馬鹿にされるのは未だ我慢出来ても、人様を小馬鹿にしていると捉えられる事もあるので、相手や状況で変化させたり使う言葉を吟味しないと大変危険である、と、最後に申し添えます。
…と、こんなに長文になるほど、私をありのまま理解していただけず、苦しかったんですね…
もちろん人の殆ど全てを理解する事なんて出来ません。けれども、唯一理解可能な一部分でさえ、誤解と書けてしまう程に、理解が解離していたら、悲しくて仕方ありません。
あんなに時間や手間を惜しんで手を変え品を変え説明したのに、星屑さえも、塵にさえも、届かなかった現実。
悲しくてやりきれないです(T_T)
あ。どこかにあったな~そんな曲。