いくらも頑張るのは向上心と背中合わせの自信の無さから。
不思議と昔からあーだこーだと言われやすい。
ぽや~んとした顔立ちからか、
コロコロしているからか、
小さいからか、よく解らないけれど、
ある意味よく心配して下さって、
アドバイスを通り越して支配や束縛や思い込みやレッテルみたいなものをいただく事が多い。
本当に不思議だ。
不思議な事は気になって仕方ない性質なので、
そうこうしているうちにいただいたコトバ達が矛盾をしていようが、
事実の私と駆け離れていようが、
私の中に染み入ってしまい、
私が矛盾した混沌とした状態となる。
自分でも気付かないうちに心身に影響が出てくる。
今もそうだ。
しかし、先ほどのブログを書き終わって、
ふと思い出した。
本当に役に立っていないかなぁ…と。
不登校の娘も息子も個人学習の塾さえ怖がったので、
私が教えて高校に入学するに至った。
次の特性に合う学校も相手に合わせて入学試験準備をして通学するに至った。
息子が未だ学校に対して緊張している時は、
どの科目も出来る限りの予習をし息子に学校の先生の方針に駆け離れない方向性で教える。
だから高校生だけれど塾代はゼロだ。
これ、結構、役に立っていると思うけどなぁ。
農家さんが贅沢さえしなかったら食べる事くらいは自分の所の作物でどうにかなってる、
みたいなものだとすると、
あながち役に立っていない事も無いのではなかろうか。
どれだけ秀でていても文化的に特に女性は慎ましやかである事を求められる。
それ故そうして来たけれど、そのうち自信というものを私は意識するようになってしまい、
結果として抑圧されて鬱病になったり発達障害者というレッテルまで頂戴してしまった。
身の丈を知る、という文化の真の意味は、卑屈になれだとか、抑圧せよ、という事では本来無いはず。
失礼ながら、年長の人や権威ある人が必ずしも私を思った好ましい方向を指し示している人ばかりではなく、
ご自身の経験談を話されていたり、それに耳を傾けて貰いたがっていらっしゃるふしもある。
もしそうなのだとしたら、お気持ちは解らなくもないが、
その様なお時間がおありなら、大切なこの国やこの地球の子ども達を育てるお手伝いを、
実際に手を体を動かしていただきたい。
その際に、今行っている作業について、昔はこんな道具無かったとかあったとか、
どう思ったとか家族はどうだったのかと知らせて下さると聞く耳も持てる。
ただ話し相手に寄ってくる人が多すぎる。
そういう意味では私は研究はトップレベルでは無いけれど、
まあまあそこそこどうにか生活が今のところ出来ているのなら、
まあまあそこそこ頑張っている核家族の延長のひとり親世帯を維持出来ているんじゃないだろうか。
萎縮や屈折する必要そのものが無い。
これだから私は偏見が嫌いだ。
『標準』偏差という正に『偏り』を本当に適しているかも吟味せずに、
基準に採用する時点で、『疑問を持たない人や異議を唱えない人だらけなのはどうしてだろう?』
と私は世の中が不思議なのである。