ズバリ!ものづくり現場をこの眼で見たかったから。スタジオの規模とか地域とかあるだろうけれど、報道もしくは番組創りというものを、この眼で見たかったんです。
研究ととても似ている気がしました。ただ、研究発表は、その都度その都度、オーディションに応募して、採択されて、審査されるそいう側面があります。参加するということは、生涯オーディションを受け続ける、という事です。
私は生涯現役にこだわっている所が在って、世で言うエライさんにはなりたくないんです。もしそれで現場を体験出来なくなるエライさんなら、成りたくない!
で、見事採択されたら、論文誌に収められるので(海外の学会なら、海外誌に収められます。)そのカメラレディの締め切りに今度は追われます。全体を通じて言いたい事が言えているか、本当に革新的なのか、何をもってそう言えるのか、先行研究は何があって、自分はそのうちどこをターゲットとして、どこに着眼して新規性を訴えているのか、その仮説はどんな仮説なのか、同実験して、どうデータ整理されたのか、結論と今後の課題はどうなのか、で概ね構成されます。
それで、英語でてにおはは勿論の事(ネイティブに校閲してもらいます)、全体を通じて秩序だてられているか、つまり論理が破たんしていないか、徹底的に研究会でそれぞれ世界のこらからを担う先生に、あっちからもこっちからも議論してもらって、そうして、最後は粛々と孤独に自分と向き合いながら執筆します。
そうして、提出し、しばし他の仕事をしたり、研究の続きをしていて、また次の学会への論文投稿を狙います。
そうして、会議の時期が近付いたら、何度もリハーサルを重ねます。ここでも発表資料が適切か、その言い回しで本当に伝わるのか、裏づけされた哲学があるか、それを立証する正しい数式があるのか、検証の在り方、見せ方、何よりプレゼンテーション能力を徹底的にしごかれて、
発表資料は論文執筆時からさらに進んでいるわけだから、それをも匂わせたものになり、飛行機内でも宿泊先でも手を加えたりホテルにこもって練習します。
会議に出ている時は関連研究のレポを取り、学内に残って、これからを目指す学生や、付き添いでいけなかった先生に、最新の現場の動向を逐次聴きとって英語でそのまま流すか、日本語に翻訳してメーリングリストに流します。
先輩になると、現場で後輩の面倒も見る事が必要となります。
研究する、って、そういう事なんです。
ちょっとテレビ制作に似ている部分があるな・・・と思いました。
大学間、あるいは、大学内でも見えない秩序があります。縦社会的な部分があるのは否めません。この場において、どの先生を一番に立てて、その次は・・・ちょっと待てよ?風向きが変わった!
イレギュラーが起きた!その場合は、こうフォローしなくちゃ。も仕事です。大きな予算がつく大学になると国際会議のホストになります。会議自体の企画を練るのです。
人員配置をどうするか、プロデューサ誰?各委員長は誰?現場の取り仕切りは?宿泊先手配は?出納関係は?論文誌編集は?などなど、とても大きな組織で、動くんです。
院生でも修士のうちはADみたいなもんですよね。兎に角走る、走る!!!!
私は36歳の時に新人でしたから、22歳とか、の男子と一緒に走っていたんです。また、それが幸せで・・・。
設置の速さ、撤収の速さ、会議の質の高さ、おもてなし。それは研究室の評判になりますし、何より師匠の顔や大学の顔、OBの顔、日本の顔に、泥を塗るような事は出来ない!という想いでやっています。
メディアに出た後不遇な事が重なり、不可抗力、いわば誤解で、叩かれました。初めてのメディア取りあげでそんな目に遭いましたから、子ども達も幼かったので、小舟のような状態にならざるを得なかったんです。
私には余りにも処世術や後ろ盾が無かった・・・。
だから、浴衣ショーは、確かに着飾っては貰えるけれど、御稽古をつけていただいた事を、本番という緊張空間で、もう一度人の前に立てるか、という自分への挑戦でもあったんです。自分の中に、まだその気質が死なないで残っているか。
有難いことに、教えていただいた事は、手前味噌ながら飲み込みが早かったらしく、すぐ着物のポージングもウォーキングも出来るようになりました。長年の癖で、マイクで司会の方に自分の事を紹介されると、とたんに落ち着く・・・というかシャンとします。
坪倉先生には、それを正直に申し上げました。先生のこれまでの人生も多少御伺いしました。
皆さん紆余曲折があって、ちゃんと苦労してはる人は、通ずるものがある。一見華やかに見える世界ほど、本当にシビアで、底力が必要で、神様の御加護が必要であることは、皆知っています。
それまでの間、もがき苦しみます。苦しむ時には藁だってつかみます。忸怩たる想いで毎日をどうにか生きていて「こんな生き方でいいのか・・・」と自問自答というか、内省と言うか、対峙というか、ずっとずっと繰り返しています。
研究を途中でストップしたのも、息子の壮絶な苛めもあったし、病気もあったけれど、もう一つ書いて来なかった事があります。
友達や親せきが勘違いし出したんです。解り易くいうと、調子にのりだしたんです。関係ない処で私の名前を出されて勝手に自慢されたりだとか、取らぬ狸の何とかで、母なんぞは勝手に家の改築計画を妄想しだしたり・・・
研究の世界、ってね、博士号取っただけじゃ、卵がどうにか孵ったみたいなもんで、そこからポスドクとか、非常勤とか、助教とか、講師とか・・・想像以上に茨の道なんですよ。
全体的に経営能力というか、運営能力と言うか、心理操作とか、色々と、本当に色々と、タフでないと上り詰める事なんて出来ない業界です・・・。
・・・知らずに、ただ、勉強が続けたくて、飛びこんだ、私。
・・・余りにも丸裸でした。
子どもには未だ未だ手がかかります。けれど、別の人生です。別個体なんだから。とすると、やはり私は、子ども達に頼っていい、と言われても行ける所まで頼る訳には行かない、という何か、神様との約束のようなモノがあって、
それを実現しない事には、死ねないんです。理由は解りません。そうなんだから仕方ありません。
頼る人より、頼られる人でありたい。
家では、もうそんな状態です。けれど、いつまでもそうじゃ、子ども達の独立独歩がない。孤立とは違いますよ。
・・・そんなこんなで、「現場」を見たかったんです。一般的に解り易い現場をね。
先生にも出演にあたって、色々手法があって、スポンサーとの関係とか色々知りました。
合点が行った事が沢山あります。
私はおそらくテレビやメディアに主に出る人間では無くて、もし万が一夢が叶っても文化人枠なので、
とっても安価で出るのでしょうけれど。でも、それが身の丈な気がしますし、翻弄されないでいい気がします。
坪倉先生が仰いました。
『帯に巻かれてはるわよ。帯は巻くの。』一言が、人生の様な気もしました。
未だ未だ精進が足りません。技も人間も。
だから焦るんです。人生の折り返しはとうに過ぎている。この身体が何よりもどかしい!!!
悔しい!!!
片手間で出来るような事とは思っていません。育児も研究も。だから倒れるくらい努力して、やっとのこと、な気もします。
そういう意味では、京都の人は簡単に手を貸さないので、厳しく育てていただけます。
通ずると御縁を大切にするけれど、認めていただくまでは、相当大変です。
精進したい。
そうして、いつか、必要があれば、飛び梅になりたいのです。