予約ではなく一般外来なのでかなり待ちます。辛くて脂汗が出ます。
感覚過敏からのパニックを防ぐ為、活字を見ようと思いました。
持ってきたのは市報。

くしくもこの様な頁が。
決して専門家だけが、ゲートキーパーではありません、と書いてあります。

詳しくはまた落ち着いたら書きます。
そして、

私は元パートナーと別居し、当時DV法もなく、周りに迷惑をかけられないと、
いきなり母子三人での生活を始めました。
追って来るので身を隠しながらビクビクしながら子ども達を保育園に預け、パートに出ていました。
当時昭和30年代に建てられたすきま風がはいる団地に住んでいました。
限界の体力と精神力の中で裁判が始まりました。
一年後結審を迎えました。丁度息子が年上のお兄ちゃんについて遊んでいて、転落して腕を骨折手術。パートはクビになりました。
職安に紹介された職業訓練学校に通いながら大学院入試に挑んだのがこの頃。
ようやくきっかけを…の時に父が亡くなります。
子育て(保育園で大変な問題児とお母さんの対応)と学業(修士論文)ともう治る事はない父の交代での看病とで、疲れきっていました。
父の手を握りながら、父にだけ進学の決意を耳元でそうっと報告しました。それが父への最期の言葉です。
父が亡くなり理解の無い当時の身内と指導教官とで、大きな鬱になりました。
季節は今頃だったと思います。
秋に少し回復した頃、修了間際の異例の研究室転籍をしました。
並列計算から人工知能へ。
そうしてデータベースへと移行して最後の研究室にお世話になりました。
冬になり、世界に名前が知れている大学院の仕事があれだけ忙しいとは思いませんでした。
仕事だけならシステムエンジニアをしていたので、多少自信がありました。
でも並行して二人の子育てと学童と自治体とPTAと、研究室のメンバーの個性の強さと、何より事務方のお綺麗な御姉様方との軋轢がありました。
そうこうしていた立春の頃、指導教官が学生時代直接ご指導を賜った当時の研究科長が、脳出血で急逝なさいました。
父を亡くして未だ八ヶ月でした。
大変ショックを世界が受けていました。
その中でも自分を奮い立たせながら一日も早い自立を…
の時に息子が学校で集団イジメに遭っていた事が発覚、
そうして従兄の自死の報せ。
学外のプロジェクト予算を請けていたので、仕事をし、もう既にパニック発作も閉所恐怖症も出ていましたが、
安定剤を口に放り込み、宮崎への出張、会議(オーディションみたいなもの)に参加、予算執行の書類を全部揃えて、私は遂に倒れました。
それから引きこもりの日々。やっと、外に(お散歩やしっとりライブ)出られる様になった矢先、
東日本大震災が起こります。
娘は阪神淡路大震災の時に生まれました。それを遥かに凌ぐ規模である事は理系故に直ぐ想像出来てしまいました。
阪神淡路で親戚が友達が被災しています。
私は北大阪に長く住んでいたので、阪神に多く親戚や友達がいました。
フラッシュバックどころではありませんでした。
あの時は咄嗟に娘に覆い被さる事しか出来なかった。
でも今なら留守をしても自分達で出来る…
けれど、やっぱり現実はシビアで、色々重なって娘の肋骨骨折、友達との関係が悪化しての大きな自殺未遂。
息子への学校の無理解…
こう書いただけでも、長い長い間、孤軍奮闘していたんだな…
って。
だけど流石に救急搬送をホームドクターに指示されて自分を受け容れたよ。
私、健常者になりたかったんだね、ずっと。
だから病院内も福祉シャトルバスで移動させて貰う事にしました。
だから私が変でも、障害者手帳持ってても、感覚過敏で自分に自分が困ってても、
奇異なガン見したり、集団で疎外したり、しないでね。
まだまだ人が怖いです。
そうだよ、ずっといじめられっ子だった。
家が大変だから親にもずっと言わなかった。
だから、助けて下さいが言えない。
甘えさせていただく事が出来ない。
ただ縮こまって全身に力を入れて握り拳作って、楽になるのを待ってたんだ。
独りで。
だから、
そうっと、ふわふわがいい。
優しく頬を撫でる風の様な。