私は通信機器、専門的に言うとプロトコルの専門家です。いや、倒れたからでした。
ブログも、ツイッターも、フェイスブックも、検索エンジンも専門家です。
大学院に行くまではシステム構築側の専門家でした。
それが大学院にいってからは、これら人間行動における真に人が求めるものは何だろう、それを充分実現できているか、どうしたら誤解ができるだけ少なく、ストレスが少なく、人が生きる上で心に素敵な情報を、簡素でその人が楽な操作で、ランキングの上位に持っていってあげる事ができるだろう、という専門家になる修行を始めました。
という事は机上の空論ではイケナイので、皆さんと交流します。
御所南小学校、御池中学校、堀川高校、稲荷小学校、東京でもいくつかの小学校と共同研究しました。
メディアにも取り上げていただき、テレビや新聞にも出ました。
すると…
どこでもそうですが、自分に余裕が無かったり、ヤキモチがあったりするみたいなんです。
私はこれだけ研究予算がつく大学は初めてだったので、醍醐味や達成感はありましたが、
同時に知らない間に的を国内外に作る側面もある事を知らなかったのです。
権威主義の場所でそうなるという事は、私が関係する世界的に有名な先生や先輩には来ません。矛先は直下の新人になります。
世間では後ろにエライさんが構えていたら掌返して大人しくならはりますよね。
ところがアカデミックな世界は違います。殊更新人苛めがあります。
だからこそボスや先輩がついていてあげないといけないのに、ある会議では放置されるどころか、便乗して(まあ、ちゃんと指導してますので、それ以上糾弾しないでやってくれますか)だと思いますが、
された事は事実としてアカハラとパワハラでした。
それが未だ慣例として許されている時でもあったらしいです。
でも周りの目を気にしてか、私の研究室では、女性の博士号は出ていません。
どこにいってもあるんです。弱いところ(例えば経済力や母子家庭であること、性別…子どももそうですよね)に矛先は向かいます。
だからこそ搬送してくれた隊員のみなさん、
府立医大の救命救急の女医さんと女性研修医さん、
厳しい状況にあってなお言葉がけの語彙の種類や傾聴の姿勢、
つまりホスピタリティが身に付いて実地で行動出来るほど訓練されている事に感動しましたし、
奇しくもご縁があった事に神様に感謝をしました。
また新たな命(神聖なる愛ある価値観)に救われました。
愛といいながら商売につなげる趣が強く、ホスピタリティという概念を持っていない数多の人の心ない言動こそが、
私たち母子に対する苛めであり初動操作のミスであると振り返っています。
娘の心を救ったのは旧友です。娘の物理的な体を思いやりとともに救ったのは、若い実直なベテランになった今に胡座を書いていない研修医です。
そうして私の心に絆創膏をはってくれたのも医療スタッフだし、ブログを読んで下さっている皆さんです。
昨夜運ばれて携帯でここまで打って『ホンマか!?』と思うかもしれませんが、
発達障害の私を理解することはあっても蔑視しない先生や仲間に育ててもらった、IQ154の素養の私が訓練された結果なので、今はこのくらいの分量と精度はあるみたいです。
でもこんな拙い文章構築能力では、世界のトップカンファレンスに到底投稿出来ないので苦しいんです。
だって、食いしん坊で小さい時にケーキ屋さんになりたくて、学生と時も大学院生の時も、パン屋さんやケーキ屋さんでアルバイトしてたから、履歴書を持参して、京都大丸に出展した某神戸本店の店舗の面接担当オバチャンは、雅子さまがされたような事をしましたよ。
私には皇太子さまも当然いませんし、パートナーも大人の家族もいませんから、ただただ泣き寝入りして帰って来ました。
働く機会だって奪う。
研究者になる訓練をしてから、知った様な言動で、『そっちに行かれてはどうですか』なら解る。知らなくて質問一辺倒で理解して『あ、そういうご事情でご応募なんですね』でも解る。
でも申し込む時点で概要をお話したのに、可能性があるかのように呼び出しておいて、いざ履歴書を見たら、知りもしないのに持論をいっぱい聴かされて落とされる。立派なハラスメントですよ。
京都大学が気に入らないなら松本総長に言いにいって下さい。
そして皆さんが思っているより苦学生だらけである現実も知って下さい。
頑張っている人の方が更に『これも出来るんでしょ』ってされる現実があります。
私なりにお応えして来ましたが、昨夜意識が戻って来て、これだけ連携したお医者さん達に『もうこれ以上ご自分を追い込まないで下さい』と言われました。
そうしてまた気づきました。
気づいたつもりになっていたんです。
F1のトップギアを入れられない限り生きている価値が無いと、子どもの頃に傷つけられ、今でも信じつづけて、生真面目に孤軍奮闘して生きて来た事に。
滑稽ですね。
おそらく言った側は何も考えず突発的刹那的に私に八つ当たりしただけですよ。
私は子どもの頃から『そんな酷い取り返しのつかない事しちゃったの!?一生を賭けて償います。ごめんなさい!』というアプローチをすべてにすべての皆様に対し行い、怯えるように緊張状態が無くなることなく生きてきました。
今なら解ります。
私は児童虐待を受けて育ってきました。
そうして誰も信じてくれません。
見た目は立派な両親でしたから。
私の疑問や心の声は最初から聴いてはもらえなかった。
だから後天的な努力で何かを身に付けた人にしか心を許さない傾向にありますし、
噂ばかりして個人では何も出来ずに群れたり他人を最初から利用したり、偽善者だったり、論理のすり替えを起こす人を嫌悪しますし、どれだけ頑張られても生きる術として知らぬ間に身に付いてしまいました。
離婚の時に法律にも詳しくなってしまいました。
罪を憎んで人は憎みませんが罪を無かった事に加担する事はありません。
解る人は解ると思います。
面白いもので自分がもう今生とはお別れかも、となったなかでも、抗わなくまな板の上の鯉になった時に、
内的に生まれ変わりが起こるものです。
ちょっと臨死体験が結構あったりするよこしま☆でした。
今回助かった意味は、またそのうち解るのだと思います。
未だ生きろ、と神様は告げた。
生きる際は相当苦しいので、そう何度も押し返さないでいただきたいんだけど(笑)、
もしかしたらこれまであっちに行く切っ掛けは…そもそも私の天命ではなくて、人様からの高圧的な支配故のストレスだったのかもしれないね。
未だ何か解らないけれど、安静にしたら、そのうち心が導かれる行くべき方向をキャッチ出来るでしょう。
導かれる予兆(予感)があります。
受けとるために今までの価値観をデトックスする時間をいただいたのでしょうね(笑)
私は頑固で人のためとなったら自分の命を考えなくなってしまったり、猪突猛進だから、
神様が『は~、この子には荒療治しなくちゃイケませんね…やれやれ。』ってあの痛みをくださったのでしょう。
今はそう思わせておいて下さい。
解っている事は、私は本物じゃないとアレルギー反応を起こすという事。
勘が鋭いんです。持って生まれたそれなので、自分でも抗えません。
それではまた眠ります。
生きていたらまた逢いましょう。
よこしま☆