それがどうとか、
変化が怖いとか、
そんな事全く思ってなんかいなかった。
ただただ必死でやむにやまれず飛び込んだだけ。
息子が骨折した。手術を必要とするそれだった。
実家に帰れなかったので、仕事を止めなければイケなかった。
子どもが大切で育てる為に必死で働く。
代わりはいくらでも居るからしがみつかないと容赦なくクビになる。
不可抗力の息子を足枷のようにさえ思ってしまうくらい追い詰められていた。
将来も悲観した。
そんな時、旧友が言ってくれた。
『稼ぎに行って、つまりお金を貰いたいから、言いようにされるのなら、払えば邪険にされない。
子どもが小さいから未だ未だ手がかかって働けど働けどクビになるだろう。
貴女は正直言って周囲の抑圧から学歴コンプレックスを持たされてしまっている。
どうだろう。大変かもしれないけれど、保育園に事情をお話して、
受験準備させてもらっては?』と。
目から鱗だった。
自治体によっても違うが当時居住していた自治体は(おそらく全国的にそうだろう)、
就業に対してのみの保育しかなかった。
シングルマザーが体調不良でも、冠婚葬祭があっても、就業準備をしたくても、正規の受け入れ理由としては認められて無かった。
病児保育なんて当たり前に無い。
当時はDV法が成立していなかったから、実家や親戚や友達を頼ると迷惑がかかる。
だから電車で少し離れた町に身を隠した。
ひっそりひっそり生きてきた。
そう、私たち母子は生活という生きる根幹を、誰か肉親や知人に護って貰えなかった。
だから旧友の言葉を大切にただ必死に生きていた。
いつからだったろうか、連絡しても話が噛み合わなくなった。
私より三つ年下の彼女は離別もしていないし、二人の親としては後輩だし、
PTAの付き合いや配偶者の実家、自分の実家との付き合いで参ってしまい、
配偶者の転勤を機に横浜へ移ってしまい、
以来連絡が途絶がちになった。
いつからか『逃げるが勝ち』と言い出した。
関わる人間と交流する人生より彼女は自分と家族を保身する人生を選んだ。
私は評価をしないが少なくとも全く違う人生だし、すがりたいけどすがられるのは嫌だ、という心の構図が透けて見えてしまった。
強い人だと思っていたが、配偶者を口ではバカにしながら、内実頼って高額な家を買ってもらい、
単身赴任になると不安定になり、
学校行事やその他で具合が悪くなるようだった。
その彼女は私に言う。
『よこしま☆ちゃんは、出来るからええやん』
ショックだった。
私は彼女に絶大なる信用をおき、期待に応えようと必死に周りを説得し、
ようやく与えられた僅な時間で合格を手にしなければならなかった。
またそれを達成することで折角もらったアドバイスというアイデアに対し旧友に対し、
格別のお礼にするつもりだった。
するとそのうち彼女の様子が変わってきた。
未だ何も言っていないうちから『私の友達どこの大学院言ってると思ってるねん!』とPTAの悪口を言い出し、
同じSE出身で先輩にあたるご主人に質問をして、
メーカと学校ではアプローチが変わってくるもんなんだなぁ…という感想なだけなのに、
それを評価と捉えたのか、
『何よ!うちの旦那、仕事ができへんって言うの!?』と言う様になった。
色んなものが勝手に崩れて行った…
それもあって私は友達を作らなくなった。
別の友達は離れていたのにどこで聞き付けたかコンタクトを取ってきた。
やがてまた何か機嫌を損ねて離れた。
研究者につく予算と給与を混同しているようだった。
大きな予算がつくプロジェクトは体力のみならず神経が本当に磨り減る。
院生でそれをすると大した給与ではないので、丁稚奉公とは言わないまでも、かなり酷似した側面がある。
ハードワークは当たり前になってしまう。でもそれは宿命。
どうやらこれらを自慢と思われたようだ。
一生懸命に毎日を生きるほど旧友が全くと言っていい程いなくなった。
その人の自慢やお顔立てに使われる事はあっても、素直に称賛してもらった事は無かった。
心を壊した大きな理由のひとつである。
別段特別認められようと思っていたわけじゃない。
嵐のように降り注ぐ仕事と家事育児をただ必死でこなして生きているだけだった。
だから特別卑下される必要も無いと思ってる。
学校ってなんだろう?
私の旧友たちは私を見ないで大学を見ていた事だけは解った。
更に引き籠ってしまうのに、それほど時間は要しなかった。
(気が向いたら続き書きます。)
変化が怖いとか、
そんな事全く思ってなんかいなかった。
ただただ必死でやむにやまれず飛び込んだだけ。
息子が骨折した。手術を必要とするそれだった。
実家に帰れなかったので、仕事を止めなければイケなかった。
子どもが大切で育てる為に必死で働く。
代わりはいくらでも居るからしがみつかないと容赦なくクビになる。
不可抗力の息子を足枷のようにさえ思ってしまうくらい追い詰められていた。
将来も悲観した。
そんな時、旧友が言ってくれた。
『稼ぎに行って、つまりお金を貰いたいから、言いようにされるのなら、払えば邪険にされない。
子どもが小さいから未だ未だ手がかかって働けど働けどクビになるだろう。
貴女は正直言って周囲の抑圧から学歴コンプレックスを持たされてしまっている。
どうだろう。大変かもしれないけれど、保育園に事情をお話して、
受験準備させてもらっては?』と。
目から鱗だった。
自治体によっても違うが当時居住していた自治体は(おそらく全国的にそうだろう)、
就業に対してのみの保育しかなかった。
シングルマザーが体調不良でも、冠婚葬祭があっても、就業準備をしたくても、正規の受け入れ理由としては認められて無かった。
病児保育なんて当たり前に無い。
当時はDV法が成立していなかったから、実家や親戚や友達を頼ると迷惑がかかる。
だから電車で少し離れた町に身を隠した。
ひっそりひっそり生きてきた。
そう、私たち母子は生活という生きる根幹を、誰か肉親や知人に護って貰えなかった。
だから旧友の言葉を大切にただ必死に生きていた。
いつからだったろうか、連絡しても話が噛み合わなくなった。
私より三つ年下の彼女は離別もしていないし、二人の親としては後輩だし、
PTAの付き合いや配偶者の実家、自分の実家との付き合いで参ってしまい、
配偶者の転勤を機に横浜へ移ってしまい、
以来連絡が途絶がちになった。
いつからか『逃げるが勝ち』と言い出した。
関わる人間と交流する人生より彼女は自分と家族を保身する人生を選んだ。
私は評価をしないが少なくとも全く違う人生だし、すがりたいけどすがられるのは嫌だ、という心の構図が透けて見えてしまった。
強い人だと思っていたが、配偶者を口ではバカにしながら、内実頼って高額な家を買ってもらい、
単身赴任になると不安定になり、
学校行事やその他で具合が悪くなるようだった。
その彼女は私に言う。
『よこしま☆ちゃんは、出来るからええやん』
ショックだった。
私は彼女に絶大なる信用をおき、期待に応えようと必死に周りを説得し、
ようやく与えられた僅な時間で合格を手にしなければならなかった。
またそれを達成することで折角もらったアドバイスというアイデアに対し旧友に対し、
格別のお礼にするつもりだった。
するとそのうち彼女の様子が変わってきた。
未だ何も言っていないうちから『私の友達どこの大学院言ってると思ってるねん!』とPTAの悪口を言い出し、
同じSE出身で先輩にあたるご主人に質問をして、
メーカと学校ではアプローチが変わってくるもんなんだなぁ…という感想なだけなのに、
それを評価と捉えたのか、
『何よ!うちの旦那、仕事ができへんって言うの!?』と言う様になった。
色んなものが勝手に崩れて行った…
それもあって私は友達を作らなくなった。
別の友達は離れていたのにどこで聞き付けたかコンタクトを取ってきた。
やがてまた何か機嫌を損ねて離れた。
研究者につく予算と給与を混同しているようだった。
大きな予算がつくプロジェクトは体力のみならず神経が本当に磨り減る。
院生でそれをすると大した給与ではないので、丁稚奉公とは言わないまでも、かなり酷似した側面がある。
ハードワークは当たり前になってしまう。でもそれは宿命。
どうやらこれらを自慢と思われたようだ。
一生懸命に毎日を生きるほど旧友が全くと言っていい程いなくなった。
その人の自慢やお顔立てに使われる事はあっても、素直に称賛してもらった事は無かった。
心を壊した大きな理由のひとつである。
別段特別認められようと思っていたわけじゃない。
嵐のように降り注ぐ仕事と家事育児をただ必死でこなして生きているだけだった。
だから特別卑下される必要も無いと思ってる。
学校ってなんだろう?
私の旧友たちは私を見ないで大学を見ていた事だけは解った。
更に引き籠ってしまうのに、それほど時間は要しなかった。
(気が向いたら続き書きます。)