ずっとしっくり来なかった。
書けば書くほどにそれは酷くなった。
信じたくなくて更に書き込んだ。
書いて書いて書いて書いて…
…虚しくなった。
わかってる。
『自分』がとうにいないんだって事。
私ね、
人ってね、
通じ合えると思ってた。
ううん、
通じ合いたかったんだと思う。
物心ついた時にはもう、
両親や親戚からも、
異端にされてたもの。
遠い遠い遠い記憶の向こう、
弟が生まれたから、って、
唯一、当時生存していた、
お婆ちゃんに手をひかれて、
延々と歩いた病院までの、
長い道のり。
末の男の子、
これからは弟が主役。
手を引かれたあの頃、
『おとうと?』って何か知らなかった。
自分より小さい人間を見るのが初めてで、
『あかちゃん』って言ってた。
自分より小さい人間を、
これまで私とお話していた私より大きな人間たちは、
あかちゃんと呼んだり、おとうとと呼んだりした。
小さい人間を色々呼んだ。
そのうち、また、違う響きが聞こえてきだした。
なまえ、っていうらしい。
自分より小さな人間は、
いつも眠ったり遊んだりご飯を食べる家に、
ついてきた。
お母さんが大事そうに抱えてた。
それから何をしてもかまってもらえなかった。
何かをして痛かったり困ったりして泣いたら、怒られた。
何かをするとお母さんは怒った。
だから何もしなくなった。
私は二歳だった。
二歳で動かなくなった。
止めた。
もしかしたら、私は最初から、
真ん中にあるはずの、
心が育っていないかもしれない。
母親と会話した記憶が無い。
怒られるか構ってもらえないかの記憶はある。
『おとうと』が来てから、
私は家族で無くなった。
人間で無くなった。
静かに何かを書いたり描いたりして、
それが秀でているときだけ、
構ってもらえたし怒られなかった。
だから、秀でるように書いたり描いたりする事でしか、
生きてこられなかった。
もう少し大きくなった時は、
怒ったらお父さんには殴られて、
お母さんにはご飯をもらえなかった。
おとうとはいっぱいもらえて、
怒られなかった。
訳が解らないまま、だった。
家族じゃないのに、どうして一緒に住むんだろう。
静かに外に出たけど、
お母さんはお向かいの長屋のおともだちと遊ぶとガミガミ怒ったから、
大家さん、っていう、
お婆ちゃんに遊んでもらった。
お婆ちゃんは畑のお仕事をしていた。
一緒の事をしたら、笑ってくれた。
誉めてくれた。
それより一緒にいてくれた。
畑のお仕事をたくさん教えてくれた。
疲れたら飴をくれた。
コーヒー味の細長い飴。
大家さんのお婆ちゃんの飴。
一緒に大きな石の上に座って食べた。
三歳だった。
大家さんのお婆ちゃんは、
家族じゃないから一緒に住んでないけど、一緒にいてくれた。
東京に引っ越して大阪の別のところに戻ったくらいに母から聞いた。
大家さんのお婆ちゃんは一人息子のために新しい平屋っていう家を建てたけれど、
寄り付かなくてそこに住む事は無くて、お父さんに貸してくれたらしい。
でもお母さんは『私が品行方正だからよ』って言った。
品行方正は、知らなかったけど、
動いたら怒って、ご飯をくれなかったり、普段は構ってくれない事とは、
小学生になっていたから、ちょっと違う気がした。
その時は家に私が読める辞書が無かったから、確かめられなかった。
確かめられなかったから、頷いておいた。
お母さんは自分の思い通りにならないと、相変わらず起こったりご飯を抜かれたりするからだった。
お腹が空いているのにお父さんは帰って来るのが遅かった。
飲み屋さん、って人がプレゼントしてくれたお寿司を夜中に頬張った。
それで少しだけ眠って学校に行った。
疲れているのに体は太っていく。
『不細工、みっともない』と毎朝、母に言われて学校に向かった。
いい事なんて何も無かった。
子ども会の役員をしていた母は、交通安全の紙芝居を作る事になったので、私に描けと言った。
テレビアニメのキャラクターを模写すればいいらしい。
直ぐに出来た。
母はそれを当たり前に持って行き自分の手柄にした。
家族にありがとうやごめんなさいと言った場面には、未だに遭遇していない。
たった一回も無い。
親に苛められても耐えて、親に尽くすのは当たり前らしい。
私は酷いうつ病になってから、この概念を顕在化し、離れて忘れる事にした。
以来、抜きん出ていてもひけらかさない、お金にもよっていかない。
物心ついた時にはもう私より大きな大人はいて、
どれだけ辛く痛い悲しい淋しい思いをしても、自分では何も出来なかったから、家にいなくてはならなかった。
働くよりも勉強しろと言われた。
今なら何をされていたか解る。