と、と、当選してしまった・・・☆
わ、わ、わ☆
激変だぁ~!!!
( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚
何に当ったかは、当日アップします。
は~・・・びっくりしたぁ・・・
最近すっごいなあ・・・運気が。
予兆はあって、ちょっと前から、あーだのどーだの、変だったでしょ?
受け取りが不能だったのね。で、
自分じゃ無理だと思うけど、プロに頼むほどの金銭的余裕もないし、
ブロック解除!!!って叫ぶ訳にはいかないし、
でも、なんていうかなあ・・・
ふるさとの空気を吸って来る事は、必要だとは思ってた・・・
って私のふるさとじゃなくて、親のそれだけど、でも、ルーツだよね。
山間の小さな小さな村。
末っ子の男の子として父親は生れました。
病弱でした。
祖父母を早くなくしたきょうだいたちは、
寄り添って大人になりました。
そんな父親のルーツ。
大和八木から、大阪方面じゃなくて三重方面なんだけどね。
だからほんとの山間。
最期に帰りたい・・・と意識が朦朧とした中で、泣きながら伯母に呟いた場所は、
自分が建てた私の実家ではなく、
父が生れ育ったそこでした。
4歳で妹が生れ、その時に、祖母を亡くしました。
15歳で、伯母が未亡人となり、未だ誕生しない従兄の父親代わりの叔父となりました。
従兄の育児をしながらの勉学は大変だったと思います。
大阪の希望の大学には行けず、京都にご縁がありました。
二年目の時、祖父が亡くなります。
祖父の遺言は、帰って来て、小さいけれども店を継いで欲しいとの事でした。
祖父を看取った後、父は伯母たちに土下座して懇願したそうです。
お願いです、このまま修めさせて下さい、と。
家も何も要りません。学を修めさせて下さい、と。
生家は、その従兄に譲られました。
従兄は10歳年上です。父親の顔を知らずして生まれて来ました。
父はずっと彼を育てて来ましたから、本当に父親の役割をしていました。
実の子の私や弟よりも、うんとうんと、従兄を可愛がりました。
今でも私はずっと我慢と嫉妬をぬぐいきれないくらいです。
従兄の結婚式も父が代わりに挨拶しました。
やんちゃで、おんなったらしで、私はやっぱり従兄はどこかで許していない。
けれど、父がそうしたい、って、私が寄って行こうにも、もう、仲間っていうか、纏まりみたいなものが出来ていて、
それは頑強で。
私は生れた意味があったのだろうか、と、ずっと自問自答してきました。
不思議な事に父が亡くなってから京都にご縁があって、
鴨川を挟んで反対側の大学にお世話になる事になりました。
本骨は大谷さんに納めています。
父が幼き頃、発していた言葉に引き寄せられるように、息子が進学しているカンジです。
時空を超えて。
いにしへ は 奈良に対して本当に敬意を払った言い回しでもありましたが、
私の今生の事実としても、壮大な時空を超えた何かがあるのだとは直感していたからです。
祖母はたぶん私と同じ病気で産後他界したのだと思います。
私は娘を生む時、壮絶だったけど助かった。
医学の進歩なんでしょうね。
私は医療に助けられ、電気で楽しみを覚えました。
自然科学が源です。
だから自然科学を愛しています。
生活の智慧を愛しています。
死別であれ離別であれ、愛する人と一緒に居られない苦しみを知っています。
命と、ただ、向き合う。丁寧に向き合う。
コツコツ、コツコツ。
一歩、一歩。
私は歩くのがとても遅かったのだそうです。
・・・なんだか、笑えて来ました・・・
なーんにも、変わっていない・・・
三つ子の魂、百まで、なのかもしれません・・・
三つの頃・・・弟が生れました。
皆の目が一気に弟に行きました。
いつだって、ひとりでした。
ひとりあそびが得意でした。
だって、ひとりだったんだもの。