リサイクル? お姉ちゃん用に購入した防寒服、当時、彼女はちょっと大きめが好きで助かりました。
何故か頑固に一度も袖を通さないまま置かれていたそれ。息子が「ちょっと名前入ったままじゃ…」と。
糸きり鋏の先の先で切っていく。最近のミシンで縫いつけられたそれは細かくて頑強で。
たった名字なのに小一時間かかった・・・でも、
取れたーーーーー!!!!
・・・それだけだけど。(・・。)ゞ
でも、集中する時間が1時間取れた、って事が嬉しい。
毎日凹んでばかり。私は何を残しただろう、って思った時、憧れのアーティストさんがプロ生活35周年とか、色々・・・
反骨するなら、「じゃ、それを支えていたのは?ファン?プロダクション?ナニ?ダレ?」って。
だけど、思い出したんだ・・・あの日の事。
娘を生む時、重症の中毒症で、助からない、って言われた。母子ともにね。で、ICUでたくさんの管に繋がれている私の所へ、
最長老の看護師さん・・・

∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
手術台で意識が堕ちたあの時!見えた初老の女性の笑顔・・・「誰!?」て思って意識が戻ってそれからが苦しくて、全部飛んでた!!!!
ICUで声を掛けてくれた吉原さんと重なった・・・未だ逢って無かった吉原さんだったんだ


あのとき、ICUで、
『貴女は命を繋いだのよ。』って。『立派に繋いだのよ。』って。
胎盤機能がうまくいかなくて、未熟児で生まれた娘は、それからも治療が大変で。おそらく、
何かの障害が残るかもしれない。その時に、自分を責める母親はうん、と多い。
意識が残っても、私も大変で。娘に逢えたのは、術後5日経って居て。
ずんずんと鬱になっていく私を、強引に連れ出して、新生児室の前に立たせたのは気丈な母。
急性ネフローゼによる網膜剥離を起こしかけていた私には、全ての物がぼんやりとしか見えなくて。
みんなハラハラしながら、見守ってくれて。で、新生児室の小さな小さな保育器に入っていた娘は、
驚くほどにガリガリで、光線治療が12時間もしないといけないほど肝機能がよろしくなくて。
自分の顔より大きな眼帯をあてられてて。細い腕からは点滴が入らないから、足に刺されていて。
小さな小さな、助かるかギリギリの命。それが娘との初対面。
看護師さんが、吉原さんが、『生きるのよ!』って。『今から貴女が娘さんにしてあげられる事は、その初乳を上げること。抗体がすっごい入っているのよ。』
手術後に着せられた病院服に母乳が滲んでいる事を、その時知りました。
身体が勝手にお母さんになっていく・・・正直な感想でした。心がついていなかった。
毎晩、急激に昇る血圧。舌下錠を取りに走る看護師さん・・・見えない目。暗室。食欲なんて全く起こらなかった。むしろ吐き気が凄い。
ネフローゼだからだるくて起きられない。泌尿器科の先生が自ら来て下さって。「もう、たんぱく質、点滴しましょう」って。「お薬効かないので変えます。」って頻繁で。
その度「お薬母乳に含まれてしまうのって、後何時間ですか?」って。生きて、母乳、搾乳して、娘に微量でも飲ませてあげたくて。
それでも「私、何か悪いことしたのかなあ・・・」って。産前も入院したし、産後もこんなで。
白い天井ずっと見ていて。
おめでとう!って1週間もたたずに退院して行く人が殆どなのに。彼女たちとそのご家族たちに「おめでとう」は言う事があっても自分はそうはなれなくて。
あれからだと思う・・・病児保育とか院内学級とか・・・医療って何だろう・・・弱っている時にかけてくれる声によって、こんなにも病状が上下するんだ・・・って。
私がこの世に貢献したこと。命をかけて貢献した事。命を生み出し育む事。
・・・これで、許してくれますか?だから私はどれだけ忙しくなっても子どもを自分の手で育ててたくて、
実家を頑なに頼らなかった・・・DVの旦那で離婚したから実家に迷惑がかかるというのは後付け。
だから、「もっともっと息子さんと娘さんを大事にしてください。」って言わないで。
もっと時間が経って、咀嚼できたら、また解釈が変わって来るかもしれないけれど。
でも、今は未だ、その言葉の傷が全く渇きもしない。
何故か頑固に一度も袖を通さないまま置かれていたそれ。息子が「ちょっと名前入ったままじゃ…」と。
糸きり鋏の先の先で切っていく。最近のミシンで縫いつけられたそれは細かくて頑強で。
たった名字なのに小一時間かかった・・・でも、
取れたーーーーー!!!!
・・・それだけだけど。(・・。)ゞ
でも、集中する時間が1時間取れた、って事が嬉しい。
毎日凹んでばかり。私は何を残しただろう、って思った時、憧れのアーティストさんがプロ生活35周年とか、色々・・・
反骨するなら、「じゃ、それを支えていたのは?ファン?プロダクション?ナニ?ダレ?」って。
だけど、思い出したんだ・・・あの日の事。
娘を生む時、重症の中毒症で、助からない、って言われた。母子ともにね。で、ICUでたくさんの管に繋がれている私の所へ、
最長老の看護師さん・・・


∑ヾ( ̄0 ̄;ノ手術台で意識が堕ちたあの時!見えた初老の女性の笑顔・・・「誰!?」て思って意識が戻ってそれからが苦しくて、全部飛んでた!!!!
ICUで声を掛けてくれた吉原さんと重なった・・・未だ逢って無かった吉原さんだったんだ



あのとき、ICUで、
『貴女は命を繋いだのよ。』って。『立派に繋いだのよ。』って。
胎盤機能がうまくいかなくて、未熟児で生まれた娘は、それからも治療が大変で。おそらく、
何かの障害が残るかもしれない。その時に、自分を責める母親はうん、と多い。
意識が残っても、私も大変で。娘に逢えたのは、術後5日経って居て。
ずんずんと鬱になっていく私を、強引に連れ出して、新生児室の前に立たせたのは気丈な母。
急性ネフローゼによる網膜剥離を起こしかけていた私には、全ての物がぼんやりとしか見えなくて。
みんなハラハラしながら、見守ってくれて。で、新生児室の小さな小さな保育器に入っていた娘は、
驚くほどにガリガリで、光線治療が12時間もしないといけないほど肝機能がよろしくなくて。
自分の顔より大きな眼帯をあてられてて。細い腕からは点滴が入らないから、足に刺されていて。
小さな小さな、助かるかギリギリの命。それが娘との初対面。
看護師さんが、吉原さんが、『生きるのよ!』って。『今から貴女が娘さんにしてあげられる事は、その初乳を上げること。抗体がすっごい入っているのよ。』
手術後に着せられた病院服に母乳が滲んでいる事を、その時知りました。
身体が勝手にお母さんになっていく・・・正直な感想でした。心がついていなかった。
毎晩、急激に昇る血圧。舌下錠を取りに走る看護師さん・・・見えない目。暗室。食欲なんて全く起こらなかった。むしろ吐き気が凄い。
ネフローゼだからだるくて起きられない。泌尿器科の先生が自ら来て下さって。「もう、たんぱく質、点滴しましょう」って。「お薬効かないので変えます。」って頻繁で。
その度「お薬母乳に含まれてしまうのって、後何時間ですか?」って。生きて、母乳、搾乳して、娘に微量でも飲ませてあげたくて。
それでも「私、何か悪いことしたのかなあ・・・」って。産前も入院したし、産後もこんなで。
白い天井ずっと見ていて。
おめでとう!って1週間もたたずに退院して行く人が殆どなのに。彼女たちとそのご家族たちに「おめでとう」は言う事があっても自分はそうはなれなくて。
あれからだと思う・・・病児保育とか院内学級とか・・・医療って何だろう・・・弱っている時にかけてくれる声によって、こんなにも病状が上下するんだ・・・って。
私がこの世に貢献したこと。命をかけて貢献した事。命を生み出し育む事。
・・・これで、許してくれますか?だから私はどれだけ忙しくなっても子どもを自分の手で育ててたくて、
実家を頑なに頼らなかった・・・DVの旦那で離婚したから実家に迷惑がかかるというのは後付け。
だから、「もっともっと息子さんと娘さんを大事にしてください。」って言わないで。
もっと時間が経って、咀嚼できたら、また解釈が変わって来るかもしれないけれど。
でも、今は未だ、その言葉の傷が全く渇きもしない。