生物学的に遺伝する法則というのは、中学校でもう履修するはず。ところが、いざ自分の家庭の中にそれを転化できないのもまた人間かもしれません。
お姉ちゃん荒れています。ジャニーズのコンサートに行くのに断固として反対はしていないけれど、18歳の未成年が扱う金額にしては高額ではないか、という指摘をしたら、
その指摘を禁止だと思い込んで荒れたのです。
はっきり書いちゃいます。頭悪い。指摘と禁止は違う。警鐘と禁止も違う。言葉がこれだけあるとうことは、
一つの言葉に一つの意味のみがあると仮定しただけでも、言葉の数だけ意味がある。ということは、
状況依存とか文脈依存も絡まって来ると複合的で離散的で意味を読みとるのが難解になる。
その時に一番取ってはいけない事は短気。責任転嫁。
「ちょっと待てよ?腹が立つけど、それって使っている人がその言葉と意味をアイデンティファイ出来て、適性な使い方に長けていて使えているか解らないから、再考しよう・・・」というスタンスが大切だと個人的には思っています。
それが出来ない娘は・・・親子でなく親バカでなく、個人として正直な感想を言うと、
「家族じゃなかったら関わりたくない素養を持った人間」という事になる。
冷たい表現に聴こえるが、かつて私はそうされていたので、悲しいかな耐性が出来ている。
親に心理的に棄てられて育った子の心の傷はそれほど深いし、それでも生き抜いたのならタフなもんである。
去年も母と言っていた。「もし、このまま、そもそもの寿命を自ら絶つような子であったなら、
それも運命だと思おう。」と。決して努力をしていなかった訳ではない。それで何をしなかった訳でも無い。
尽くして尽くして自分の命までかけて尽くして、それでも救えないモノがある事も現実にはある。
それを享けとめよう、という意味だ。冷血とは違う。
先日、同期と話をした。博士号を競っていた頃には考えられなかった関係性だ。
11も年下の同期に話をしたのは、彼なりに教員として厳しい状況にいて、それを粛々とこなしていたのを知っていたからである。
あの頃より随分と社会経験も積んだと思ったからである。他人の意見も参考にして一旦ヒートアップした言動を冷やしたかったのもある。
案の定彼は言った。『それはすすめないな。社会に出るとその方がいいこともある、という事。たとえそれが正しくなくてもね。』
至極納得した。おそらくそういうアドバイスが来るであろうこともおおよその推測の範疇で連絡したのもあったからだ。
どうやら私と娘との関係は、残念ながら昔の夢だった、違う関係性には出来ない事がある程度解ってしまった。
同じ様に反抗して、そうして自立していくのなら、またそれも受け容れよう。
親になると言う事は、一方的な苦労をする人生を引き享けると言う事かもしれない。
・・・と同じように静観している不思議君が今、横に居る。そんな彼に娘は、
『学力と勇気が足りないから学校に行けなかっただけやろ!』という暴言を吐いた。
私は、たとえ家族や親子や親せきであっても、対人間に暴言を吐くものではないと強く考えている。
さあ、どうかな?頭が良い、っていうのは、一意じゃないよ?
さ、ここで一旦感情を脇に置かないとオカシクなりそうだし、本気で娘を嫌悪してしまいそうになるので、
冷静になるためにこう書こう。敢えて。
『家族の形態なんて、たかだか様相論理だ。』
そうして私こそ考えを、もう一度。娘の成長を、やっぱり信じよう。
一に忍耐、二に忍耐。
私にとって子育てとは忍耐かも。けれどこれをネガティブに取らないで欲しいです。
忍耐強くなることは、私には歓びの一つでもあるので、そういう意味では忍耐は楽しみです。
学問が楽しいのと同じように。
それでは、しばし仮眠を取ります。
おやすみなさい。(ものすごぉ~く、自分に近い所に自分が向かって行っている感覚。)