父の命が、もう幾許も無いという頃、意識が混濁をし始めました。まだ若いのに、私の事が解らなくなりました。私を看護師さんと勘違いして、虚ろに小さい声で話す父。
私は咄嗟に看護師のふりをしました。理由はありません。何故かそうしていました。父の話に合わせた私が居ました。
私の父は末っ子です。お姉ちゃんがたくさんいて、お兄さんもいたのだそうですが、昔は子どもが育たなくて、唯一7つになれた男の子だったそうです。父が15歳くらいのころ、10歳上の伯母が結婚しました。
直ぐに子宝に恵まれ、誕生まであと少しという頃、昭和32年の冬、訃報が入りました。伯母の愛する旦那さんが会社の不慮の事故で即死したという報せでした。
伯母は御主人の葬儀を身重で執り行いました。サヨナラも言えず、朝行って来ます、と職場に行ったきりになった伯父をおくりました。伯母は錯乱したそうです。そうだと思います。
そうして、そのショックで早産になってしまいました。従兄は昭和32年12月に仮死状態で産まれて来ました。伯母は重なるショックに「この子までをも連れて行かないでくれ!!!」って心で天に叫んだんだそうです。
昔の事なので、女性には家を貸して貰えませんから、伯母は実家に帰って来ました。それ以来父は、ずっと従兄のお父さん代わりでした。17歳のお父さんになりました。一年後、大阪大学を受験しましたがご縁がなく、同志社にお世話になる事になりました。実家を離れました。
が、翌年、祖父が亡くなります。肺気腫でした。臨終で祖父は父に戻って来るように遺言をしたのだそうです。祖父を看取ったあと、父はお姉さんたちに土下座をして、「お願いです。途中で辞めさせないでください。家も何もかも要りません。学校だけ出させて下さい!」と懇願しました。
過疎の田舎で初めて大学に行ったのが父でした。祖母は父が4歳の時に末の妹の産後の肥立ちの悪さで他界していたので、伯母たちが小さい雑貨やと内職で父に仕送りし、育英会のお世話になって、学業を修めました。そうして、ずっと従兄の父親の役割に徹しました。
従兄が大学に行く時も進言し、費用も捻出しました。父が帰る所を放棄する事で、叔母と従兄が済み易くなるだろうと考えた父は、事実、そうしました。
父は大阪の船場で就職しました。昔は就職差別があったので、大卒だけれど後ろ盾がないので、丁稚奉公の働き方でした。深夜二時まで働いて、そのまままた朝出勤する毎日でした。
その働きっぷりに感動した母が父を好きになったのだそうです。大阪の八尾という処の小さな文化住宅が新居でした。当時文化住宅と言えば、ハイカラなイメージだったそうです。私は、そこで産まれたのだそうです。
ひと月生活するのにギリギリの状態だったので、当時高価なカメラは無く、私の小さいころの写真はありません。それでも従兄が遊びに来る時はめいっぱいの御馳走をし、迎えたのだそうです。
父は貧困の労務者のために労働組合を立ち上げるスタッフとなりました。会社にとって疎ましい相手になったのでクビになり、新天地を求めて東京に移りました。当時、まだ地方から東京に出て来た人には、田舎者のレッテルを貼るような人もいた時代でした。
それでも父は一生懸命働いて母と自分の実家に仕送りをしていました。それをお小遣いに従兄は東京に遊びに来ました。従兄もとっても父が大好きでした。従兄の名前は父がつけました。伯母たちは尋常小学校しか出ていなかったので、識字に長けていなくて祖父が亡くなってからというもの、
従兄達の名前は全員父がつけました。それくらいみんな父を頼っていました。普段の父は朝帰りばかりでした。昔の関西は営業のスタイルとして接待がありました。それを東京でもするのが父のスタイルだったようです。お酒も飲めないのにピエロと成り取引先のご機嫌を取る役割をしていました。
仕事以外は寝込んでいましたが、自分の家族が東京に来ると元気を絞り出して接待しました。
だから・・・私は実の父がいますが、甘える時間を貰えませんでした。いつも誰かのお父さんでした。
特に、その従兄が遊びに来た時は、特別扱いで、父は占有されようと自らしました。私は起きている時間に父が帰って来た事が嬉しくて、寄って行きました。お勉強が出来る子どもが好きだったのを知っていたので、学校で習ったばかりの算数の二桁の繰り下がりを見てもらおうと持って行きました。
すると父は従兄との時間を優先しようと画策しました。まだ倣っていない4桁の繰り下がり問題を一問出して「これが出来たら持ってこい」と言いました。習っていません。教科書にも載っていません。母は父と従兄への食事の用事と弟の世話で手いっぱいでした。
いつまでもいつまでも出来ませんでした。この一問が出来たら、お父さんとお話できるのに。
どうして従兄はろくに勉強もしないでお父さんとお話できて、普段食べられない様な贅沢なご飯を食べる事ができて、素敵なお土産をもって帰れて、私はこうして泣いたまま寝てしまうくらいの算数の問題ひとつしか貰えないんだろう・・・。
私は、どうしてなんだ!っていつか言ったんだと思います。子どもだったので理解できなかったんですね。そんな私を父は「お前なんか、一生誰にも好かれない!!!」と糾弾しました。
以来、私は、それまでずっと嘘をつかれて仮面をかぶられていて、実は嫌われている子なんだと思いました。そうして唯一勉強が出来るようになる事しか、その家で生きる術がないと思いこみました。小学校一年生の冬の事です。
それから出来ない算数に拘りました。もともと絵が好きで一日中描いている子でしたし、音楽も一日中弾いている子でした。けれど、それをやめて出来ない算数を出来るようになる事が人生の目標に代わりました。父に認めて貰いたかった。好かれたかった。ただそれだけでした。
数学科出身だと言うと、さぞかし理科系が得意だと思われますが違います。一番出来なかった分野です。だけど、出来る様にならないとお父さんと折角生きているお父さんとお話が出来なかった・・・。
けれど父自身も4歳で母親(祖母)を亡くし、家族にも不幸が重なり、淋しかったのでしょう。いつからか、家に帰らず、同じ様に苦労している女性のもとに行ったまま帰らなくなりました。
母が直接いうと喧嘩になるので幼いのに会社に電話して「お家賃ってお母さんが言ってる・・・」っていう役目だとか、生活費を会社に取りに行く役割をしていました。子どもが当時の現金を挙動不審ながらに、家にもって帰る役割をしていました。
それもこれも、早くに人が亡くなるからだ、と思える様になるには、子どもの私には時間がかかりました。勉強が出来なくてもいっぱいお小遣いをもらって、彼女が横にいても可愛い女性にすぐ声をかけ、家庭を作ってもいつも浮気をする従兄はどうして許されて、
私は小さいころからこういう役割をし、家の事もし、勉強もし、折角受かった合格通知を捨てられ・・・
それでも父に好かれたくて泥酔して帰宅した父を、母の代わりに介抱していました。
もしかすると、これらを覚えてほしかったのだと思います。その想いが強い形が、自分自身の記憶を失いたくない、自分だけは自分のして来たことを、たとえ親が忘れても覚えていたい、と自助しようと、していたのだと思います。
これらの想いは親には言っていません。言っても届かない事を、もう察知していたからです。
両親が揃っているというだけで母に辛く当る父や伯母たちでしたから。
これらが理由です。纏まっていないしちゃんと書けても居ないと思います。
もう、とうに心は壊れていると思います。どうぞ偏見も差別も向けて下さい。
慣れています。慣れていないけど、辛くて倒れるけど、そんな人が減らない事はもう知っているし、
父ももう亡くなって久しいし、かつて私をいじめた人が「あの時は悪かった」と言ってくれた人も皆無ですから。
生きているうちにしか謝れないのに。そのせいで生きている間苦しむ人がいるのに。
だから、せめてもの、人生への反抗でした。
だけど・・・・もう、崩壊しきってしまって、それが子どもにまで影響があるのだとしたら、
この反抗という自分を保つ形を変容させる必要があるようです。
誰にも心を開けなかったので、開いていただくことはあっても、遠慮して開かなかったので、
開き方も解らないし、どうしていいかも途方に暮れています。だから、ただ、
毎日をたとえ無機質であっても、もう少し子どもが自分で生きていける様になるまでは、
・・・と思っています。もちろん自殺願望いつもありますよ。物ごころついたときからあったんですから。
子どものうつは最近認知されましたが、ありましたよ。
東京に転校しても、大阪にもどってきても、どこにいっても、新しく入る人間は洗礼のようにイジメを受けます。
でも、親に言わなかった・・・そんなどころじゃなかった。
その結果が私です。滑稽ですか?だったら笑って下さい。笑われる事も苛められる事も、
とても辛いですが、もう諦めました。どうぞ。いっぱいしてください。
当り散らしても下さい。それで気が済んで、あなたの周りが幸せになるなら、どうぞ。
あまり長く生きようとは思いませんから。
それに明日はどうなるか、解らないしね。ホントのところ。
だからこそ、って思って一生懸命にしてきたけど、偽善みたいに言われるし、
逆ねじは喰らわされるし、詭弁は使われるし、責任転嫁はされるし、
もう、疲れ切りました。
そういう意味です。あまり長く生きようとは思いませんから、って言葉の意味は。
だから吐いちゃいますね。もう。