色々思うところがあって、つらつらと書いていたのですが、
六時に鳴るお寺の鐘が優しく深く響き続けたので、
落ち着いてきて全部消しました(笑)
少し前にとある方へのコメントを震災も関係ある内容だったので、
かなり本気で文章や気持ちと向き合ったので(安静にしてなさいよ、って話ですが…苦笑)、
興奮しちゃったんでしょうね。
興奮。英語ではエキサイトですよね。まあ、一応義務教育で習う事にはね。
でもスピリチュアルなものでは、このエキサイトはわくわく、と訳すみたいですね。
映画のレ・ミゼラブルも視ましたが、夢やぶれて、のあの曲で、人生をJOYと表現する事を知りました。
同じ英語でもアプローチによって違う日本語に置き換えられるんだなあ…って。
だから、例えば、字幕は戸田さんに頼みたい、とか、
ハリーポッターなら松岡さんが専属とかあるわけですね。
けれど私は私の言葉、もう少し詳しく正しく本音にかなり近い状態でいうと、
私がひとつひとつ、全体の流れを考えながら、探しに探して宝物をみつけたような気持ちになってたどり着いた単語(冠詞や助詞や接続詞や空白や改行や括弧も含めて)さんたちを、
まるで作業所の障害ある人が真摯に織物を紡ぐように書いているつもりではあるので、
変に編集される事を嫌います。
『この人の感性になら安心して預けて編集してもらってもいい』という人に出逢うまでは、
私は私の紡いだ織物のようなコトノハというそれを、
変に加工されたくない!
さっきの興奮は本当にこの文脈ではエキサイトでいいのか、人生はジョイでいいのか、考えます。最初からしっくり来ているか解らないんです。
じゃあエキサイトはわくわくしかないのか。
ジョイもわくわくの割合が多いなら人生は…?
ジョイというから不遇という概念が生まれるのだとしたら、やはり人生=ジョイ、という既成概念を覆さないと、いつまでも悲しい。
とするならば、それは、一時的にであれ、神様にエクスキューズすること…
ここからは数学的には再帰的だと思うし、もう少し高次元の数学でいうとトリックでありギミックだと思いますが、
ちょっと精神医学では合理化的な気がします。
で、私は生を生み出す性である女性なので、これらを俯瞰するんですね…
そんな吾子キリストを、聖母マリアはどう受け留めていたのだろうか、と。
シューベルトでもどなたでもいいのですが、いつからか、
頭の中は優雅に鎮かにマリアさまの曲が鳴り響いています。
和であれ洋であれ鐘の音に心を洗われ、鳥の囀ずりに力をもらい、
私の穏やかな朝と生ります。
また変なブログになっちゃった。
今日は何か食べられるのかなあ~
体の声に聞き耳を立てて過ごしてみますね。
みなさま、よい一日を
