おそようございます。 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

早朝に原因不明のかなり激しい腹痛に見回れました。


七転八倒。


声が出ず家族の誰も気づきませんでした。


あまりにも痛いので薬とか探せず、


オカシナ発想になってしまい…いや発想出来るはずもなく、


本当的に痛みを更に強い痛みで麻痺させるべく、


頭をあちこちにぶつけにいって逃してました。


…と思います。たぶん。



ようやく少し動けるようになって、


不思議君の傍に行き(お姉ちゃんは一旦寝たらなかなか起きないから)、


消えそうな声で名前を呼びました。


勉強するために起きてこない事を怒られると思った彼、


飛び起き。事情を説明、まだまだ痛みがぶりかえすので、


彼にケアを頼みました。


内蔵の動きさえ、場合によっては激しい痛みだと捉える体のようです。

私は帝王切開をした事があり、
特にお姉ちゃんの時には集中治療室に入っていて、
直ぐに体を動かす事が出来ませんでしたから…

癒着も…ってたぶん心的ストレスが許容を超えたんだと…


安定剤を久しぶりに服用して、この暖かいのに体が芯から冷えているので更に温かくして、


さっき意識の向こうから帰ってきたところです。


困った体だなあ…


てなわけで倒れて意識がとぶ前に『お母さんをできません、ごめんなさい。ご飯くらいは炊けるよね。ごめんね、ごめんね。』


って意識が遠くなりました。


まだお布団の中なので彼らの様子が全く解りません。


蓄積されるしかない心労が感度が高すぎる発達が、


私を時にこうします。



何日も徹夜して男性以上に成果をあげていたころが信じられないね。


まあ、無理が祟ってこうなっちゃって。


だって…これでも親戚や知人じゅうの期待、

背負ってたんだもん(苦笑)



で、今は…


物の見事にいなくなったね。


自慢の種にならなくなったからだろうね。

役にも立てないし。


私は物心ついた時から、

『条件つきの愛』を馬の鼻先に人参をぶら下げるようにされて育った人。


教育学をかじった人なら知ってるよね。


だから生育環境って子どもが物心つく少し前には、


親の精神安定も含めて整える義務というか努力が必要なんだと思うよ。


双方のね。双方の親のね。


私が言えないけどね(笑)



私の幼少期を思い出しちゃって、

フラッシュバックしたんだ。


母親は体が丈夫じゃない私がまた手を焼かしたと怒った。

自分ではどうにもならない事で怒られて、ぐーのねも出なかった。


父はまだ少しは帰ってきていた時期で、痛くて苦しんでいる私の部分を温かい手で撫でてくれて、

それで痛みが和らいで朝方やっと眠りについたっけ…


五歳とか位じゃないかなあ…


母は自分の記憶のうち五歳というと世界対戦がどうだのの時期だったらしく、


おじいちゃんが兵隊さんだったから、お腹が痛くてもきょうだいも多かったし、

私みたいにしてもらえなかったと思う。


自分の子どもが私みたいに大変な想いをしないで欲しいという想いと、

インナーチャイルドがせめぎあう時があるんだなあ、と直感してた。


だから比較しなくてよくなるためにも、


あの環境に身を置く訳にはいかないと、


私は離婚したし実家や親戚の比較されそうな価値観からは今でも距離を置いている…


とかいて、あらためて読み返して自分はこんなことを考えていたんだ~…

って俯瞰出来て整理出来る。


絵を描く人が描けるかどうか、それが無理矢理かやっつけか、でその時の状態が解るように、

私は文章を書いたり歌を歌ったり、絵もそうだけど、

それがバロメーターになってる。


診察では先生からの質問に受け答えをする事で、

その答えの様子から私の状態を診てもらいます。

私は好奇心が旺盛…中でも学問や音楽に対する知的好奇心が旺盛なので、

先生の分野で言えば生物学、医学、薬学、QOL(生活の質)、大学スタッフとしての在り方に対して、疑問に思っている事を質問します。

で、その時に、適切な質問をたてる事が出来ているかを、診てもらっているんです。

会話で診断。履歴があるから判断できる。

だから私は通院するのです。自立支援法についても勉強する機会に恵まれました。

病院のスタッフさんと顔見知りになり、直接的ではないけれど、色んなお役割を通じて患者をケアして下さっている事も知りました。


また訳の解らないブログになりました。


体が動かないぶん、まるでそれを包含するかの如く、文字を羅列する事で、


全てが自分から無くなってしまってはいない事を、自覚したいのだと思います。


だから、こんなブログに付き合って下さっている、いずれも様に、

心よりの感謝を申し上げたいといつも思っています。


ありがとうございます。


また横になります。


体を鎮かにする日かもしれません。


集中治療室に見舞いにきた伯母たちが、私が臥せっているのを見て眠りきってしまって何も聴こえないだろうと、スラングをたくさん話していました。

それを知った主治医(医長)の先生が伯母たちをたしなめました。


『いいですか?安静というのは、ただ寝ていればそれで済むというものでもありません!

本人が耳にしたくないかもしれない事を聴かせないのも心を安静にするんです。

毎晩大変な状態になっている患者さんを最優先に考えられない見舞いであるなら、

今すぐここをご遠慮ください。』と。


看護師さんはそれ以来、面会謝絶の札を下げてくれました。


にも関わらず父の危篤の際に、伯母たちは、こぞって同じ事をした。


私は伯母たちみんなを寛大に受け入れられる余裕は持ち合わせていません。


あの日主治医の言った事は本当に聴こえていて、


『先生ありがとう。私が夜中に苦しくなるのは、私が言葉を発せられなかったり、抵抗できない事に、こうして自分の概念をたくさん押し付けられたがために、起こっていたんですね。

安静には少なくとも二つある。

有難うございます。』


体は動かなかったけど感謝の涙はこぼれました。


だから私はこれだけの数の言葉を書きますが、

短いコメントをして下さる人に対しても、

絵文字だけの人にも、

コメントをしてくださったんだから、

そこに愛が見えたなら、

全てウェルカムです。


ただし、そこに愛ではなく自己主張だけだったり、

競争論理から食ってかかったり、

サカネジのようなそれらには、

『今は大変でいらっしゃるんだなあ』で見ますが、


あまりにも改善がない場合には、

私は子ども達を心身ともに健やかに育て、生きるために必要な人様とのコミュニケーションの在り方や、知識や叡知を、

あと何年、このあまり丈夫でない体が生存するか解りませんが、

伝承と継承をする必要があると考えています。


もしかしたら神様はそれを実現するために、一見世間では生きにくいかもしれないけれども、

発達障害という微細なセンサーを下さったのかもしれません。


我慢をしているけれども、心で辛いと叫んでいる誰かの声にならない声にきづくために。



よこしま☆