世界にひとつだけの花と一次独立。 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

解明できるとスッキリするよこしま☆ちゃんですヾ(@°▽°@)ノ

先日「傷ついた」と表現した事実について、やっと自分の中で解明・分析・整理出来ました。

解らない事が次々に起こって、その中にハラスメントにも似た「力」と、本来分化された方が宜しいかと思われるマテリアルが混在している場合、私は痛く混乱して、その力の方向性が自分に向いていた場合は、「傷ついた」と表現する様です。

その事実は、ある団体の名前をIDにした代表というか取りまとめの人によって齎(もたら)されました。

ツイッターや仕事では通称名(旧姓)を使っているのです。そうして本名である時の、御主人の趣味というか集客というか、それのアナウンスメントをされました。

おそらく業界的に言うならバータだと思います。二匹目のドジョウですね。それが当たり前になっていらっしゃるのでしょうけれど、

そもそもその人が勤めている会社の代表取締役さんが持っておられるスタンスは唯一無二のオリジナルへの拘り。

そうでないと存在意義が無いのです。世界観とでもいいましょうか。

これが個人的なIDで個人的に御主人を応援するのなら、まだ理解出来たんです。

代表取締役のファンを流すっていうか、誘導するっていうか、その団体の名前のIDをフォローしているのは、

その人が勤めている代表取締役さん及びその人の関係者であり、その人の意志が重なって初めて成立するものだと考えます。

意図ってそういうものです。存在意義ってそういうものです。つまりその人は大元の代表取締役に責任が行きかねないIDを使って、代表取締役さんの人気にあやかって、実は個人的なパートナーを応援していたにも関わらず、

「仕事を一緒にしている人は応援する事にしていますのよ。気になるのでしたらスル―して下さいね。」と一見丁寧に見えるけれども小馬鹿にした返信がありました。

私はこれに憤慨し、混乱したのです。

私はちょっと変わっています。マジョリティじゃない、という意味です。ひとり親というのもそうかもしれませんが、

離婚した時、相手の姓をもう名乗らなくなりました。そうして元の親の所も戻りませんでした。自分で戸籍を立てたのです。

もしかすると、こういうやり方でしか、旧来の流れからすると、女性が筆頭者にはなかなかなれなかったのではないでしょうか。

絶対相容れ無いかもしれません。それが解ったのです。私は、勤めているボスやプライベイトのパートナーや子どもの自慢を一切しません。その理由はそれぞれが独立だと考えているからです。

ちょっとだけ数学用語というか、えっと・・・これは大学生になってからだったか、高校生だったか失念しましたが、一次独立という考え方があります。けれど、別段、数学に特化した話じゃありません。

世界にひとつだけの花、これを例に出すと解り易いのに、どうしてかつて習ったはずなのに、高校の数学が例だと、解らない事にされてしまうのでしょう?解らないならなぜ解ろうとしないんでしょうか?

人間が考えたのに、人間が理解できないわけがありません。というわけで、一次独立。難しく考えないで大丈夫です。つまりは、世界にひとつだけの花と同じ概念(考え方)だと思って下さい。

私は私、私の努力は私の成果。助ける時は黙って助けます。助けていただく時は一生懸命懇願します。これ、昨日、教会で教えて頂いて来たコトノハを使いましたが、でも、それってよく掘り下げて考えてみると、日本古来にもある礼節だと思いませんか?

人にはそれぞれプライドがあります。どの人にもです。解り易く言うと思春期の男の子。かっこつけたいですよね。人様の前で恥を書きたくないですよね。そう、日本には恥の文化があります。

上で書いた、助ける時は黙って助けると、助けてもらった人のプライドが傷つきません。あの人は無能な部分があると悟られないで済みます。そうして助けて下さいと声をあげると、その様子を俯瞰していた人からすると、あたかも「助けている人は有能なんだ」と思います。

つまり相手のプライドを尊重した言動、日本古来の言い方でいえば、礼節なんですね。

なので、甘い汁といいますか、それを自分以外の肩書を利用して・・・つまり、人のまわしで相撲を取る人を私は嫌います。丸腰じゃない人、および、礼節を弁えていない人は、これまでどうやって成人して、社会と関わって来られたのか、と思い悩んで憂いてしまうのです。

「仕事を一緒にしている人は応援することにしていますのよ。」というなら、仕事をしている人全部、応援しているツイートをしていますか?・・・事実は違います。ツイッターなんだから履歴は外から丸見えです。

そうして振込先口座がその人の通称名(旧姓)じゃなく本名なのですから、応援した人が御家族であることも丸見えです。だとしたら、尚の事、自分のボスが関わっている名前がついたIDではなくて、通称名でもいいから個人名で隠れ蓑を使うことなく、堂々と応援して下さい。

二匹目のドジョウをつかもうとして、窮するとボスを盾にする。

そんなスタイル、何年人間として生きて来たか知りませんし、何年人間の親をしてきたか知りませんが、いかがなものでしょうか?とそれこそ問いかけをしたのです。

事実として、返信、つまりみなさんから見えるツイートという形で返信がありました。それもまた、いわば無防備というか、一見私をチクリ!とやりたかったのだと思いますが、看板のIDで個人をそうした、ということは、ハラスメントに該当します。

そうして、そのIDは?・・・そうですね、ボスの立ちあげたプロジェクトの名前が入っているIDです。それを使うんだから、慎重に、賢明に使用する義務と責任が発生する立場であることを自負して下さい。そう背負うの。責任を背負うの。

公の名前を使うと言う事はそう言う事です。社会に出ると言う事はそういう事です。

それが成っていない場合・・・笑われるのは一体誰でしょう?

貴女を雇っている人であり、貴女のパートナーであり、貴女の親であり、貴女の子どもであり、貴女と仕事をしている人です。

貴女の言動が、貴女の周囲の人の評判になります。だからツイッターというSNSで、そのIDで、そういうツイートを、正しくもないコトノハで、140文字で、呟いていいのですか?

と言っているんです。

ボスがツイッターをしない理由。真剣に深く掘り下げてお考えになりましたか?いつまでもどこまでもずっとずっと考えましたか?

雇ってもらって生活の基盤を構築する機会を得ているのに。

なんだか、同じ人間として、その律していない様子に幻滅したんです。

返す言葉も本当にチープで。感情的で。ごめんなさい、ハッキリ書きます。

だから、私、嫌いなんです。大きな(と思っているだけだと思いますが)肩書を隠れ蓑にして、生きる様。

それをイケナイとは申しません。人間なんて弱いんですから。けれど、その事実を真実にするために、考え、そうして、処すべき言動がおありなんじゃないですか?

そもそも私のような立場の人間からの収益で活動しているんです。いわば私たちはオンブズマンでもあります。

全く以てして、いくら弱い(ここでいうのは完璧ではない、という意味です。)といっても、それを開き直るまでには、まだ修業が足りないんじゃないですか?傾聴がたりないんじゃないですか?という意味です。

窓口なんですから、色んな人が不特定多数関わるんですから、専門家じゃなくても、クレーマー対応の術くらい身につける努力を、誰に何を言われなくても必要だと察知して、予めして置いて下さい。

それも含まっての皆さんの憧れですよ。

みられている、って、そういう事です。都合のいい事だけに耳を貸して、そうでない事をぶった切るのでもないし、馬の耳に念仏というそれを、私たち側を馬にしてするのは、いかがかと存じます。

民衆は昔と違って、就学率が上がりましたし、別にそうでなくても、そもそも学ぶ気持ちや好奇心があれば、知能はつきますよ。

というわけで、これらが解明したので、スッキリしました~☆

私は横になっている時に、こんな事をしたりしています^^;

だから寝ている時は眉間にしわが寄っていると思いますよ。だって、大脳皮質がずっと活動しているんだもん^^;

トイレにいったり、お風呂に入ったりすると、閃くけど、そのひらめきを支えているのは、常日頃の脳活動です。

あーあ。ハッキリ書いちゃった~☆

言われなくてもね、そんな事ね、意識しないでもいいくらいになるまで鍛錬して、体に沁みついています!

まだまだ京都は10年目です。やっと住ませていただいています、って言ってもいいかな、ってカンジです。

まだまだ勉強します。人生の新参者が大変申し訳ございませんでした。若く見えるかもしれませんけど、さっき意見させていただいた人とは、同じとしか、もしかすると年上ですので、これまでずっと辛抱して聴いて参りましたが、

ちょっとこんな言い方申し訳ないですが、人の肩書なのにプラシーボ効果(心理学用語で、人の後光で自分があたかも偉くなったように思う心理状態のこと。)で勘違いしているようにお見受けして、

それはいくらなんでも、いい歳した、もう大きいお子さんを複数人持つ親としても、相当いかがなものか、と思うので、ここに記しました。

それをどう思われるかは、私のブログの読者にゆだねます。私はとってもこれまでの言動、私への扱いがぞんざいだったので、大変傷つきましたから、もうwithdrawします。スル―なんていうチープだけの事象を正確に表現できていないコトノハしか持たない人とは関わり合いを持たないように心がけます。

これ以上、傷つくのはもう御免です。もし、あなたが学校関係者でしたら、りっぱないくつものハラスメントをされてしまっていますよ。

誰も指摘しなかったのだとしたら、その慣例が怖い・・・気付けば人が去っている、っていう状態でしょうね。

ごめんなさい。私も最近似たような事を書かれたブログ友達さんとやっぱり類は友を・・・じゃないですけれど、私なりに踏ん張りましたけれど、もうお手上げです。結構最期まで頑張る人なんですけれど、私がいるうちに気付いて欲しかったんですけれど、耳が痛いといってはリジェクトしたり邪見にしましたね。しかも大きな力を借りて。

それが貴女の真の姿です。

それについて、どうという評価は、私は出来る立場にはないですけれど、関わると辛い、と心がいうので、自分の心は守ってあげようと思います。

全く、概念や価値観が相容れない人だったんですね。

私は言の葉、専門用語ではバーバルで、像を見てもらいたいから書くのです。

ミュージシャンが楽曲で像を見てもらいたいのと同じように。

だから、タイトルはコンセプトですが、私はタイトルを決めてコンテンツを書くのではなく、

仮のタイトルをかいておいて、コンテンツがある程度形になったら、見直して、

それで修正した結果、最終的にそのままか、変わるかはするけれど、タイトルをつけます。

・・・そうしないと、単なる人形、つまり、存在意義の無い、誰かと似ていたり、代わりはいる、なんて言われるものになってしまう。

それは死んだも同然です。私にとっては。

私は修了した最終の学校の先生達に教えていただきました。

自分の概念がからかわれたり、軽んじられたり、勘違いされたり、侮蔑されたりしたら、

全精力を傾けて、言葉で自分の概念を立証しろ、と、決して怯むな。と。

指導教官(師匠)の言葉です。

『いいですか。概念は言葉です。』

これは私のバイブルです。

究極は学問も宗教ですからね。

西田幾太郎先生があるいた哲学の道を、観光の方があまり通らない時期に、しっかりゆっくり噛みしめながら、歩きたいのもありますし、

先生のご様子を書かれた著書を、旧かな遣いでしっかり拝読したいと存じます。

なので、最近、ブログの皆様が、嗜みとして、詠まれている歌、をとても興味深く真摯に私なりに向き合わせていただいています。

英語が不得意な私に、ある先輩は言ってくれました。


『ならば、まずは、母国語である日本で、貴女の概念を、掘り下げて正しく、思考錯誤した様を、そのまま論文と言う形で、後世、貴女と似たアプローチで研究を始める後輩の標となるために、執筆して下さい。』
と。

そうです。それを読まれて、「私はここが違う!」「なるほど、ここまでは研究されているのか!」と役に立ててもらうための、たとえ捨石となっても、です。

それが褒められずとも、進むという事です。

だから、評判で生きる人は、好きじゃないし、マジョリティに流される人も・・・ごめんなさい・・・

けれども違うなんて、当たり前。個々の人間なんですから。だから話合えばいい。その結果、誰かの意見に偏ったように、一見見えても、納得してそれになったのなら、それは集約された民意ですよ。

たまたま、その人が、一番近くにいた、というだけで。それだけですよ。

特別視されることもないし、奉られる事もない。それだけです。

特別視するから、蔑視がある。

ニュートラルでいいんですよ。

私からすると、巷の、流行りとか、マジョリティとか、ブランドを気にする人の方が、

よっぽど極端で、上とか下を作って、自分が強い側に混じって、そうでない側を敵対するように映るけどな。

・・・変なの。

私が変じゃないかもよー。