囚われてはイケナイ事は解ってる。でも、時としてなるものは仕方がない。
すったもんだしてパニック起こして家そのものを出る事が出来なかった不思議君。
正直もたない

憚らずに言っていいなら、レ・ミゼラブルじゃないけど、
自分のアイデンティティーあるいは夢が潰えたら、
やっぱり人は生きていけない…
同年代が今生の別れをしだした。
従兄の自さつも衝撃だった。
私の誕生日に連絡が入った。
どうして今の状態の私に伝えるのか、もっと方策は無かったのか、と錯乱して言ったら、
『知るか!私側の甥っ子やない!配慮する必要無い!私は関係ない!』と母に怒鳴られ切られた。
お従兄への配慮もなければ、私への配慮も孫への配慮もない。
私は従兄の死と同時に、実母に愛されてはいなかった事を知った。
薄々感じてた。いつも母はそれこそずうっと祖父母を想い続けていた。
ずうっと、ずうっと。
結婚しても子どもが出来ても。ずうっと。
そう、父も私も弟も、誰も母には見てもらえてなんて無かった。
母はずっと祖父母に愛されたくて生きていた。
それが現実。
だから私はべったり一緒にいたり、
配偶者や子どもを愛している特に女性は苦手だし、
もし配偶者の事を愛しすぎて遺された子どもが寂しい想いをしていつつも母親の想いに寄り添っている事に気づいていない母親を見た場合は、
錯乱してしまう。
私は事実として体が丈夫じゃない。
だから息子が自分の特徴を自らがよく知り受け止め、
少なくとも必要最小限のコミュニケーションが自分の言葉を自分の口から発して出来るようになっていく必要がある。
だから敢えて特徴があるけれど、突き放した。
そうして辛くて突っ伏した。
そうして先方に先回りして連絡している自分…
事情をお話して、
『息子をどうぞよろしくお願いします。』
そう言ってまた、
案じ続ける自分を見つける。
神様が決めた順番で行くと、
私が先だから。だから、ちゃんと育てて、
皆さんに受け入れていただける人間に。
でないと境界に生きる人間は、
生きられない。
私は羨ましかった。
愛される事を知り、
配偶者や子どもを愛する事が出来る女性の事が。
そうして、親・配偶者・子ども、があるとき、
子どもが最も愛すべきだと出来ない女性の事を、
受け入れられないでいる。
ひとりで必死に育ててきて世間から孤立し、
子どもを羽ばたかせようとしている私は、
やっぱり寂しいのですか?
寂しい…
…のですか…?
…。