『そんなもん、離婚いうたかてわかるないな!
慰謝料やら養育費やら目当てかもしれへんで

…なんちゅう話題や。
家庭裁判所を経て地方裁判所に至り、
結審して示談、つまり協議離婚に成りました。
しかしそういう経緯なので一応裁判証書はあります。
こちらから申し立てたので裁判費用は此方が負担。
大変だったので法律扶助協会に貸与していただき、
無利子で完済しました。
諸事情で慰謝料も養育費も請求していません。
そういう人間からすると、
『そんなもん、離婚いうたかてわかるないな!
慰謝料やら養育費やら目当てかもしれへんで

は酷く傷つきました。
悪気が無いだけにたちが悪い。
離婚も理由は色々でしょうけれど、
全部貢いだ上に、
父の財産まで無心するようになり、
思い通りにならないと暴れ、
借金、女性問題、尻拭いは私。
離婚調停中の二児の幼子を持つ女性に手を出して、
妊娠させもしました。
だから不思議君のお産も立ち会っていないし、
迎えにも来ませんでした。
向こうは離婚成立後親権が欲しかったので、
堕胎しました。
それらを全て整理し解決したんです。
なのに本人には全部お前が悪いと言われました。
義母にも全部お前が悪いと言われました。
これら一連の解決の延長戦で離婚問題女性問題を専門とする女性弁護士と知り合いました。
自治体の女性センターで無料法律相談をされていました。
だから着手料も国が定めた最低基準で住みました。
そもそも母が経理畑、某財閥系に勤務していたり、
父は実家が商売をしていたし、経済学部卒業なので、
私は育つ上で金銭感覚が身に付いていたようです。
銀行に勤務していた事もあるので、まあ大体解ってます。
理科系は電算だけじゃなく、会社全体の仕組みを理解していないと、よいシステム構築ができません。だから巷で文系と言われている事も必然的にプロ並みに勉強します。
元のパートナーが若かったから、出世払いという事で貸与したり、私が保証人となったり。
それでも本人は味をしめたくらいにしか解っていなかったようです。
婚前の話では、相当苦労をしていて、こころにとても大きな傷を負った、
真の意味で寂しい彼でした。
若いころの義母も、5歳で両親と死別し、親戚を渡り歩いたそうです。
満足な教育もつけてもらえず、荒れに荒れ、色んな悪い事をしのだそうで(知りませんでしたが)、
結婚の約束をした人は会社の後継者だそうで、そちらの方からすると、
家柄や素行がよろしくない義母との婚姻は全員一致で反対と成り、
後ろ盾のない義母は周りに言われるがままと成りました。
子どもに恵まれない弟夫婦に元のパートナーさんは一旦引き取られます。
それでももう子どもには恵まれないと医者に言われていた義母は離れられなかったのでしょう、
あるときタクシーで乗り付け、元のパートナーさんを、先方から半ば強引に引き取りました。
後は折って来なかったそうです。
それでも若い義母は学もなく、水商売で生計を立てるしかありませんでした。
元のパートナーさんは週末を除いては、殆ど預けられっぱなしだったそうです。
そのうち同居するようになったのですが、まだ若い義母、そうして幼くして両親と別れたせいでしょうか、
親子ほど年の違う家庭がある議員さんの妾となりました。
元のパートナーさんは引き取られても、家に居場所がなかったそうです。
お爺ちゃんくらいの歳の議員さんに虐待され、義母も加担してたそうです。
その人も亡くなり、またひとりになって寂しくなったのでしょう。
虐待していた我が子とまた、生活が始まりました。
そうして自分は好きな人と一緒になれなかったから、と言って、応援していました。
私の家は全員反対でした。生まれ育ちではなく、素行に問題がある、という事で。
私はあまりに感情的な実家の反対で混乱していたのだと思いますが、
当時は若くてその見極めが出来ませんでしたし、実家にいても、
なんだか勤勉が親の自慢の道具に使われているみたいで窒息しそうな人生だったので(もう摂食障害は出ていました。)、
彼と一緒になったのです。
けれど、やっぱり、子どもが生れてうまくいかなくなってきました。
そりゃそうです。私は私が育てられた背景で考えて育てる。先方は違う育て方。
そうするとやっぱり素行が気に成ってしまう。
娘はタバコの不始末で、吸殻を口にいれてしまい、救急車で運ばれて胃洗浄を二回しました。
私はタバコを吸わないので、処分の仕方が解らないのです。それでも、
『お前がちゃんと始末していないからこうなるんだ』と叱られました。
もう、本当に、男尊女卑もいいところ。
それまでの人生のうっ憤を全部出されているカンジでした。
夫婦で仲良くしていると、義母は機嫌が悪いと、思いだすのか、
『息子を返せ!』とまた厳しく荒れました。
そのうち義母が無心したりみえすいた嘘をつく人だと解ってきました。
そうして生きるしか無かったのでしょう。
もはやDVは子どもに迄至っていたし、私が全て揃えた生活の基盤、家財道具だけど、
どれ一つとして勿体無いとか名残惜しいと思ったら命や人権が無かったでしょう。
だから本当に体と小さな段ボール一箱の子どもの着替えだけで全てを手放しました。
元のパートナーの最後の言葉は、『明日は保育園に送っていくから。』でした。
彼の中では子どもをはじめ親族に関わる決断となる離婚理由は、
保育園に連れ行かない事に私が怒った…
…んだそうです。
これは、あまりにも、違いすぎ、もう、修復出来るもので無い事を、
想い知った瞬間でもありました。
ですから、私は、基本的に、聴き役です。
本当に辛いなら、専門家を探したり、行政をさがしたりしますが、
アドバイスは基本しません。なぜなら、自分には該当した事は、全ての人に該当するとは限らないし、
私は専門的な教育を受けていないので、素人が手をだすようなそんな危険極まりない事、
命や人生がかかっているので出来ないのです。
それでも一度は一生を伴にしようと思った人で子どもの親。
更正する祈りにも似た希望があったのですが、喉元過ぎればなんとやらのように、『子どもが2人にもなれば、離婚するなんて言わず自分の意見も言わず支配的に従順になるだろう。』だったようです。
苦渋の決断でした。当時はまだDV法が無かったので実家には戻れません。迷惑もかけられませんし、
母はカッ!とすると「家に厄介な事をもってきてくれないでくれ。どこそこにいるから。」と、居場所をバラシテしまう人だからです。
なので、本当に本当に本当に勉強して孤軍奮闘しました。
便宜上、地方裁判ですから、慰謝料と養育費は民事では請求という形式を取るため、決めなくてはなりません。
300万と500万とは印紙代が違いますがどうしますか?という話までしないとイケマセンでした(苦笑)
別居して親元に帰れずパン屋さんで耳をもらい、お米はお粥にして、古着をもらい、粗大ゴミを分けてもらい、古紙の叔父さんにまた使えそうな参考書や絵本を分けてもらってました。
有り難かったです。
保育園では服がみすぼらしいとイジメられました。私も着替えは殆どありませんでした。
『食べてるか!?服あるか!?お前の親や弟はなんで来てくれへんのや!?』
保育園に親がわりに付き添ってくれたのは、私の誕生日に自さつしてしまった従兄ちゃんです。
『それやのにお前はなんでぐれへんのや!?』
私のせいで誰かが悲しんだり苦しむのは嫌だから。
そんなお母さんでも、どっかで好きでね。ううん、自分を好きで居て欲しかったんだと思う。
だから、障害を持つ子どもを生んでしまったお母さんが苦しむって考えた。
だから、本当はね、お従兄ちゃんよりうんと前に逝こうと思ってた。
そんな時に、お兄ちゃんの訃報が入るんだもん。こころを読まれていたのかと思った。
しかも私の誕生日。どういう事なんだろう、って今でも考えているよ。
きっと、あさはかだから、去年、お兄ちゃんに年齢が追いつく時、
「こんな私が追いついていいのだろうか???」って、本当に錯乱した。
憔悴しきっていた。
でも、もし私が逝ったら、また誰かに迷惑をかけてしまう。
それは回避したいし、子どもを置き去りに出来ない。
将来があるから連れてもイケナイ。
もう、狂乱していてもオカシクないですよね。
全部、抱えて生きて来ました。
そんな中を。
だからお願いだから、
『そんなもん、離婚いうたかてわかるないな!
慰謝料やら養育費やら目当てかもしれへんで

なんて言わないで

直ぐに父も亡くなってしまったから、親戚じゅうに、私が苦労をかけたからだと罵倒されました。
分籍したから一切財産分与もしてもらってないよ。
なのに京大に自力で入ったら知らない間に自慢して。
そんな親戚、知人、世間、
だいっきらい

どれだけ惨めでどれだけ理解されずイジメられて生きてきたって思ってるんだ

体験した人にしか私は心を許さないところがあります。
許してください。