おはようございます。


短い夢を見ました。


詳しくは書けないけど、


小さなおともだちの夢でした。


その子どもさんにも依ると思うんですけれど、


押並べてあの歳の頃の小さなおともだちに、


じんわりあたたかく惹かれて仕方ない自分を、


また認識しました。


やっぱりってカンジです。


夢だから映画解説のように書けるのでしょうが、


じっくりコトコト大切に温めたいので、


こういう書き方で留めますね(笑)


一方、あの頃のわたし…


遠い記憶…


有難いけど私には不向きな事柄を


たくさん頂戴して来てしまったようです。


否応なしに。


それにも気づきました。


新年早々これだけたくさんの事に気づくって事は…


押し込められて潜在下に行ってしまった思いが、


目覚めて浮上して来たんでしょうね。


どうやら永く寝ていた私の中の子どもちゃんが起きちゃったみたいです(^_^;)


では私はどんな子どもで何を感じていたのか…


ある程度ことばを獲得した今の私の中で起きたので、


これからの人生の体験に沿って、


ここで綴って行く事になりそうです。


すでに元旦からなっちゃってましたけどね(^_^;)


さすが私とご縁がある方は、既にその変化に気づいていらして、


メッセージなどでアクセスを頂いています。


遠くかもしれないけど、


時に寄り添い、時に遠慮しつついてくれて、


本当にありがとう。


それはずっと見続けてくれている、って事だから。


昨夜、意識と体が分化するという体験をしたからこそ、


自覚したんだと思います。


この体は今生でお借りした体。


頭では理解していたし知識としても持っていました。


興味があると独学しちゃってずんずん集中していっちゃうので、


オラクルカードなどの存在もしっていました。


カードに素敵な絵を施してイメージを強化する。


けれど、それを扱うヒーラーさんの解釈によって、


言葉を身につけている人ほど、


いつしかヒーラーさんの価値観に沿っていくようになります。


「そういう解釈もあるんだ」くらいに思っています。


それが本当にそうなのかは、自らが体験して初めて、


「ああやっぱりそうなんだ」「ちょっと違うな・・・別の解釈なのかもしれないな、私には。」


って身につければいいんです。


それが出来ると、子どもに過剰期待しない。子どもに依存しない。


そう依存しないんです。


前に私は数学を専攻しているとお伝えしました。


学校で習った事を紙の上で正しいとされている回答が身についているか。


これを考えて「私も好きでした」と御話される人がいます。


私はそう言う事を申し上げているのではありません。


そういう事を通じて、自分の中にどういう物の見方が培われましたか?


が真に解って欲しいことだと、私はそう考えています。


これとて、私の一個人の考えですが、そうした目で見ると、


数学も英語もその他の学問も、ものの見方の訓練なんですよね。


数学だって単元がある。するするっと入って行ける単元もあれば、いくらやってもうまくいかない単元もある。


学校で学ばなくても自ら書店に趣き、自学してみればいいんです。


それでも、学校の入試問題はよい機会です。


それを作った人がどんな想いで、どんな事に気付いてい欲しくて作成しているか。


昨今は、予備校に外注発注する大学が増えて来たと聞きます。


由々しき事だと思っています。それでも、そのような中でも、時代に逆行するかのように、


自らが未だに定期試験なり入試なり問題を作成して受験生の回答に網羅的に、そうして深度までも読み込む先生が何人もおいでです。


それを知ってもらいたい。大学に限った事じゃありません。そのような先生は目を凝らせば、


あちこちに散見されます。


確かに人気のあるツールやメディアに乗れば、目につきやすいでしょう。


けれど、その事と、個人の価値観にそれが合致するかは、違う話なんです。


そう、違う話。これをしっかり意識する事です。


数学で言えば、「これは数学をするという真の意味では是非知っていて解っていて貰いたい概念」は、

(一次)独立だと私は思っています。代数学になりますが、1から2に行く時が本当に辛くて難解で異次元なんです。

2次元以上は、どれを軸(目標)に持っていくかによりますが、それでもやっぱり機械的なので、楽です。

そう、数学においては、まず一つある。で、次にどこに軸を置くのか?が大切なんです。

だって思いません?二歩目があって初めて1歩めと繋げられる。そうすると自分の向きが見えてくる。

二歩目がよく解らない処に置かれると混乱する。そうすると無限次元重ねてそうしていつしか、


サイクルに気付くまで自分の方向性が決まらない。


けれど、それだっていいと思います。もし、生きて何かを生産する事を急ぐ必要がある生き方をしている人は、


二歩目が大切で尚且つ急ぐ事が必須かもしれませんが、


そうでない生き方をする人も沢山います。要は自分の生き方に対する意識だと思っています。


自分を内省する意識と俯瞰する意識が複眼的にあると(ね!二次の多重でしょ?)、


少なくとも無いよりは先が明るいです。


ちなみに大学院の博士課程の問題になると、どういう問題が出題されるか。


コンピュータサイエンス部門に特化した事かもしれませんが、


有名な問題に『NP(不完全)問題』があります。そうですコンピュータサイエンスをするなら、

これを知っていないともぐりだろう、っていう問題です。


どういうアプローチだと思います?


「出来ない事を証明する」んです(笑)高校で矛盾している事を証明した事があるかと思いますが、


それを数式ではなく、セルオートマトンという回路を使って証明します。


そう、解法と必要なパーツの両方がある事が前提なんです。


はい、ここで、何も入試問題に特化した事じゃ無いじゃん!!!


って思ったアナタ、素敵です♪そう、それも正しい。


そうです。生きる上で、何か目標を決めて、それに対して少しでも進めるなら、


これらは直感的にあるいは経験則で解っていたはず。


それを言語化というか正規化というか汎化したものが系統だった学問です。


だから私は生きていく上で、学んだ事は、


『理論と実践の両輪が揃わないと私は生きづらさを感じ、その先が困難になる。』


です。そうして、これに人様の積極的な手助けは必要ありません。


参考にはさせていただきますが、それと同じには生きません。


なぜなら、それでは人のやり方で自分の人生を生きるって事だから。


これと、じゃあ貴女は人と相容れないのか、とは違います。


それぞれが独立概念を持って、初めて相互理解が始まる。


そう思って私は子育てをしています。


時にそれが辛くて浮かぶ事もあるでしょう。でも、流されきっちゃイケナイ。


浮かんでいるうちにも、体は浮遊しながら、頭は働かす。考える。考えて考えて考え抜く。


そう周りを見ながら考え抜く。


亡くなった父が言っていた事。


『果報は寝て待てじゃない。”練って”待つんや。ええか。』


本当に人をよく見ていた人です。


会社で教育する立場にあった人です。学校という機関の先生じゃないけれど。


だからこそ本当に人情のある人でした。


筋は通す、ただし、その人が元気なら。


痛んでいる人がいれば、まずは回復してから。


相手が抵抗する術が無い場合、責めてはいけない。


つまり喧嘩は相手と自分が充分に対等かそれ以上の場合に限る。


です。でないとイジメですからね。


弱みに付け込む事は絶対許しませんでした。


その教え、あの介抱しながら、時に私は女ですが、弟以上に、


直接つっかかって、それでも勝てなくて、自分の言い分が理解されなくて、


何度も何度もぶつかって、敵わない、という意味で負けて、


それで悔しくて悔しくて、そんな自分が情けなくて、


泣き声さえ聴かれるのが嫌だったから、布団に頭を突っ込んで泣いて、


それで立ち上がってきました。


だから、そんな私を、未だ何も知らないうちから、何かのレッテルを張って、


抑えつけようとか、自分の都合の良いように持っていこうとか、


大した事もないのに自己顕示する人が大嫌いでした。


けれども、それなりに歳を取って、


「私がそう見える、その人も、そうして必死に生きて来る上で形成されたその人なんだな。」


って解るようにもなりました。


これも父の教えです。別にこれから何かを話すぞ、っていうんじゃなく、


どんな時も話の理解はしようとしていた、というか、自然とそうする人間ですから、


この耳に残っています。しっかり。


そうお香は聴くというように。


私は絵が発する内なる声を聴きます。


音だってそうです。


だから、それが必要以上に作りこまれた音だったり、


必要以上のオーバーダビングだったり、


それが不必要に飾った映像は、かえって邪魔となり、


心で聴けなくなります。


目を閉じて音源だけに集中する。


すると壮大な音の世界が到来する。そう、音が作りだすその人の世界観という像が見えるんです。


だから私の心が傷ついていて閉じていると聴けない。


どんな出し方でもいい。


素敵な世界観を映し出したその人の作りだした音の粒なら。


それがその人の音であり、その人の内なる声。


私はその声を聴きます。


聴くという字に心が入っています。心で聴きます。


私は心が満たされないと、聴けなくなります。


この場合の満たされる、は、大きな傷がない状態を言います。


そう、未だ何もしていないうちから、心を相手のいいように搾取された場合、


あるいは私のしてきた事をあたかも自分がしたように横取りされたり、


うまく言葉を使って人の心を惑わす人と関わってしまった時、


あるいはその人が自分自身の心に偽った場合。


私の心はとてもとても傷つきます。


その傷が癒えるまでは鎮かにしていようと思います。


それから、真の意味の、独立をしたいです。


もしかすると私の真の意味なので、数学的独立に基づいていると思いますが、


やっぱり独立をして行きたい。


そのために、一過性としてでも、依存は必要でした。


依存がどういうものか解らないと、独立も解らない。


そう二つ目、案外肝心かもしれませんよ。


初夢だけど、それが纏めというか、最近の私の人生という旅の、一旦の答えのような気がしました。


私という人生の作品、自分で創作して行きたいです。


きっと回復したら、さっきの、搾取も、そう言う事を乗り越えて、


たとえそうだとしても作品として完成されていたら、


それはそれで聴ける日が来るかもしれない。


そう思える機会を下さった、ヒーラーさんに感謝します。


それでは今日も1日楽しくお過ごし下さい。


みなさまにとっては、


どんな事が楽しみでいらっしゃるのでしょうね。


交流を通じてこれから解る事にわくわく♪しています。
o(^o^)o


今回のブログ、少し長くなりました。


それにも関わらず、


最後まで目を通して下さったあなた、


きっとご縁があるのですね。


いつもありがとうございます。



よこしま☆