今日は従兄の誕生日です。
お従兄ちゃんは、お腹の中にいるときに、もう直ぐで逢えるというころ、
お父さん(伯父さん)を会社の事故でなくしました。
10歳上なので、55歳になりました。
伯母さんはお別れを言う事もできず、身重で伯父さんの葬儀を出しました。
それで、ショックでお従兄ちゃんは、早目に出て来ました。
仮死状態だったので、お従兄ちゃんまでもは、そんな酷い事はしないでほしい、
そう祈ったのだそうです。
お従兄ちゃんも、決して順風満帆な人生ではありません。
本当に色々苦難の連続でした。
持っていた家庭も手放さなきゃならなくなりました。
8年くらい前には、腎臓がんがみつかりました。
早くに見つかったので、片方の腎臓はなくなっちゃいましたが、
今では介護施設のお仕事をしています。
さきほど電話しました。姿が父に似てきたそうです。
お従兄ちゃんが生れてから、子守りは父の役割でした。
17歳のお父さんは、一生懸命子育てしました。
かつて妹の面倒を見たように。
父は4歳で母親を亡くしています。その時に生き残った妹の面倒を一生懸命みていました。
父が10歳の時、その妹と死に別れます。
私は物心ついた時から、父は私の父ではありませんでした。
お従兄ちゃんの父であり、皆の父でした。
御酒を飲んで朝帰りして、そのままぐずって眠る前までしか、
会話ができませんでした。
話の内容の多くは、いつも、妹のことと、従兄のこと。
そんな従兄の誕生日です。
伯母も24歳で未亡人となりました。
55年間、親がいないなか、どちらかというと、
孤独に子どもを育てて来ました。
それでも、何度も何度も人生でチャレンジしている姿は、
幼き私の目に焼き付いています。
電灯もつけず、暗くなっても、老眼鏡をかけて、
ずっと勉強している伯母です。踊りもその頃習ったようで、
今は婦人会で踊りの師匠をしています。
だから、着物の着付け、とっても上手です。
浴衣を最近着るようになったので、今度は着物を教えてもらおうかな。
成人の時に作ってもらったそれ、タンスの中です。
色白の私にあうように、仕立ててもらったけれど、もう若くはないので、
訪問着に仕立て直して、袖を通してみましょうか。
伯母が生きているうちに。
温かくなったら、認定証書、本家の墓前に見せにいく約束をしています。
認定退学で、博士号の学位記じゃないけれど、
それでも、頑張ったと、
言って貰えたら、こんなに嬉しい事はありません。
今日は伯母に、おじいちゃんのことやおばあちゃんの事を聴きました。
私が生れたときには、もうおじいちゃんもおばあちゃんもいなかったので、
私は直接御話することは叶わなかったから、
伯母づてに聴くことができました。
山に囲まれた里に、ルーツがあるそうです。
傍系だったのだそうですが、直系が財をつぶしてしまったのそうで、
今では、従兄が守っています。
系統って不思議ですね。
必ずしも直系が残るとは限らない。
そうなると、直系も傍系も関係ないとは思うのですけれど、
やはり重心があるようで、
その直系でも傍系でも跡をとる人間を育てる母の、
その力量が、
問われているように思います。
若いころは厳しくて怖いと思っていた伯母。
ただ、がむしゃらに、必死に生きていた姿だったんですね。
ありがとう。
上の伯母ちゃんも、元気?
御嫁にも行かず、家を真の意味で守ってきたのは、こちらの伯母でもあります。
私の父を育てた伯母。
伯母だけど、おばあちゃんでもあります。
父が亡くなるときの、伯母ちゃんの悲鳴が忘れられません。
最愛の自慢の息子のそれ、
もしかしたら、そっくりな私の顔をみたら、
泣くかもしれないけれど、その涙が愛のあるコトノハだったら、
私はそれでいいような気がします。
『家は泣きに帰るところ』
そう教わりました。
外で虚勢をはっていても、家では本当の自分を見せられる。
だから、今の、私の家族は、痛んだ羽根を休める家なのだとしたら、
まずまず、家づくりとしては、これでいいのかもしれないなあ、と、
そう思ったりしています・・・。
伯母ちゃんはこうも教えてくれました。
「お前の誕生日は、あの子(下従兄)の命日や。」
泣きじゃくる私。
「守ってくれているんや。」
もっと泣きじゃくる私。混乱する私。
命を掛けて教えてくれること。
私、何やってんだ・・・。
もう一度、
もう一度、
蘇れ!
蘇れ、私!!!
戻ってこい!!!!!!!!
2012年12月22日。