ピグ友さんから、プレゼントいただきました。
こんな私のことでも、とっても心配してくださる、素敵なお姉さんです。
今、本当に余裕がなくて、本当にごめんなさい。
自分で自分の不器用さに呆れてしまって、自分の事が大嫌いなんです。
いつもハツラツとして、笑顔が素敵で、活動的な人が羨ましかった。
小さい時から(今も小さいけど^^;)内向的で、いじめられっこで、体が弱くて、
家で甘えたかったけど、親はいつも緊張していて。
お母さんをかばったり、弟をかばったり。
傍若無人に見える父が羨ましかった。
口の立つ育ちがいいという母が羨ましかった。
早々に、優等生になるのを止め、親に堂々と迷惑をかける覚悟が出来た弟が羨ましかった。
ただ、地味に、ただ、粛々と。
学生だけをして、優等生で、成績がいいときだけは、お父さんとお母さんは喧嘩しなかった。
小学校の二年生の時、東京の中野という街にすんでいました。
赤ちゃんの時にお父さんが亡くなった従兄が遊びに来ました。
普段から、お父さんは家に帰ってこなかったのに、お従兄ちゃんが来た時には、
早くから帰って来た。そうして、談笑していた。
私も二人に寄っていったら、「これができたら来ても良い。」って問題だされた。
まだ繰り下がり習っていないのに、2000-1=?ってだされた。
出来なくて出来なくて、いつまでもお父さんの所に行けなかった。
私は本当の子じゃないと思っていた。
3年生で大阪に引っ越した。5年生だったと思う。学校から帰って来たそのままの私に、
母は問題を出した、534×34+534×65(なんでもいいけど)って。
「えっと・・・534×34・・・・」って四則計算に沿って解きはじめたら、
『あーあ。この子は、アホなんやわ。あかんな。』って見捨てられた。
そう、結合法則を知らなかったから、合理的に解けなかった。
その両親を喜ばそうと、褒めてもらおうと、私は意地で数学を専攻した。
英語の方が得意だった。化学の方が好きだった。生物も、物理も好きだった。地学はケプラーの法則を実際に計算するあたりからついていけなくなったけど、
数学よりもっと楽に成績があがる科目はあった。でも数学に拘った。
ずっとずっと、両親に、あるいはどちらかにでいいから、認めてもらいたかった。
でも、そんな事は無いまま、父は亡くなった。
母も、プライドが高い人だから、私があまり知らない分野で知識をひけらかす。今でも。
どうして母は私に喰ってかかるのだろう。
そして努力した成果をどうして自分の手柄として奪ってしまうのだろう。
やっぱりあの結合法則を知らなかった時から…。
何かあったんだろうか。
東京から大阪に引っ越した辺りから殊更厳しくなったように思う。
最初から、子どもと競争する親なんているのだろうか。
私は、ただ、遊んで欲しかっただけ。
どうしてこうなっちゃったんだろう。
数学なんて出来無かった。もちろん今でも得意では無い。どちらかというと、ずっとギリギリで単位を取ってきた。
ただ、やっていると、それなりには、解るようになってきて、
勉強をしている時だけはそうっとしていてくれるから、
喧嘩もしないでいてくれるから、
数学の世界に避難していた。
けれど、そうして、いつまで数学をしても、その事については褒めて貰えない。
何か言うと、
『なによ、ちょっと、大学行ってるからって。』っていう。
平然と、『数学している人、って、おかしなるんやってな。』っていう。
昔、世良公則さんのラジオ番組で当選して、ご本人と話す機会に恵まれた事がある。
放送局からかかってきて、担当の人が、仕組みを説明して、一旦切るけれども、
今度は本人からかかってくるから、出て欲しいというものだった。
ドキドキしてまったのに、横で普段は「勉強だけしていればいい」という母は、寄って来て、
収録しているのに、自分の事を紹介してくれ、と、訳のわからない、進行を全く無視した言動にでた。
世良さんの進行の声にうまく反応できないくらい、横でうるさかった。
後で放送のために、おそらく母の声はうまく消したのだと思う。
今も、母は、タレントの、山本梓ちゃんのおばあちゃまと知り合いだそうで、
そればっかりいう。
コーラス仲間さんのご紹介も、
「○○という企業にお勤めの△△さんの奥さん、こっちは・・・」と御主人の肩書ばっかりをいう。
そんな事どうでもいい、どんな素敵なところがある女性なのか、その人を知りたいんだ。
有名とかそうでないとか、お金があるとかないとか、年齢が上とかしたとか、男性とか女性とか、
・・・・どうでもいい、魂の会話をしたいだけ。
だから・・・ちょっとでも、そういう、部分が醸し出されると、私は察知してしまう。
壁を作ってしまう・・・
人間は、自分の経験則に宛がって、人を推し量ってしまう愚かな生き物。
子どもの成長幅を奪いたくないから、私は敢えて引くところがある。
何かあって、怒っているんじゃない。出来ればよい方向に向けたいから、
何を一体困っているのか、正直に言って欲しいだけ。
欲があっても、プライドがあっても、そんなものどうでもいいというか、外してくれないと、
本当が見えない。
子ども達も勘違いする時がある。解決したいからこそ、正直に、見栄とか虚勢とか、外して言ってくれないと困るんだ。
私は、何も思わない。「・・・つい、嘘をついちゃったんだ。こうなるとは思わなかった。本当にごめん。」例えば、こうでも、
『そっか・・・悲しいけど、そんな事情があったんなら、そうなっちゃうときもあるよね、
人間だもん。』って話をしたいだけだよ。
だから、両親が私にしたような事の部分でもされると、途端に反応してしまう。
これを、たぶん、一般的には、トラウマ、っていうんだと思う。
両親が生きていたら、それだけではハッピーじゃない。そう思う。
不仲だったけど、母には、言った。生意気だけど言った。
「若いころは、私たちが幼くて、自分たち二人で過ごす時間も無かったと思う。
病気だけれど、病気だからこそ、自分たち二人だけの時間を持つことが出来たんだ。
もう残り少ない。どうか、その貴重な時間を二人っきりで過ごして欲しい。」
・・・通じなかった。
母は人にお願いする事が出来ない人。
「~してくれないかなあ。」が言えない人。だから、
「なんでしてくれへんのよ!!!」って言い方をする。
子ども頃は、全くこれが解らなかった。
事実として、月曜日、下の子の事でも、担任の先生、学年主任の先生、養護教諭の先生ふたり、
教務の先生と、私と下の息子で話をした。
難しい話をした。でも、やっぱり最後は、
『ひとり親なので、物理的にどうにも手が回らないんです。どうしても頑張っても頑張っても、
至らない処がいっぱい出てくると思うんです。でも、先生達に丸投げする気は毛頭ありません。
でも、やっぱり出来ない事が出てきます。お願いです、この子をどうか、助けて下さい!!!』
って、頭を下げてきました。
娘の関係者の皆様にもそうしています。ブログではちょっと強気にかくときがあるけど、
実際はそうしています。人様にご尽力していただくんだから。
それを、母に報告しました。案じてくれていると思うから。
でも、母は、言葉が下手なんだけれども、全く自覚がないので、
『そうそう、そう言うて、うまいこと言うて、先生、動かしたらええねん!』って言いました。
・・・・呆然。
・・・・愕然。
・・・・辟易する。吐く。
でも・・・父の時もそうだったけど、毎晩夜8時に父と病室に居るのが怖くて、
電話をしてきたのは、すっかり忘れているし、
「この、私が、そんなことするわけない!」って言ってきかないから、
もうそういう事にしています。
私も、こうしているけれど、一方で、子ども達は、私とは別個体であることも、同時に意識しています。
未成年だから、ある意味、家族というプロジェクトだから、親として、
私が先に死んでも自分でその日のごはんと寝るところを確保するだけの力はつけられるよう、
どうにかなんとか何かが残ったら・・・ただそれだけ。
ただそれだけのためにもがいている。
そうして何より、正直に言えない事も含めて、人様の事を理解できる人であってほしい・・・。
辛い耐える作業だけれどね。でも、それだけ。それだけなんです。
私は・・・命に応えたいだけ。
そう、謙虚で強欲です。
命に応えるなんて、大それた事、を、思う、不束者です。
ごめんなさい。
そして、ありがとう。
こんな私のことでも、とっても心配してくださる、素敵なお姉さんです。
今、本当に余裕がなくて、本当にごめんなさい。
自分で自分の不器用さに呆れてしまって、自分の事が大嫌いなんです。
いつもハツラツとして、笑顔が素敵で、活動的な人が羨ましかった。
小さい時から(今も小さいけど^^;)内向的で、いじめられっこで、体が弱くて、
家で甘えたかったけど、親はいつも緊張していて。
お母さんをかばったり、弟をかばったり。
傍若無人に見える父が羨ましかった。
口の立つ育ちがいいという母が羨ましかった。
早々に、優等生になるのを止め、親に堂々と迷惑をかける覚悟が出来た弟が羨ましかった。
ただ、地味に、ただ、粛々と。
学生だけをして、優等生で、成績がいいときだけは、お父さんとお母さんは喧嘩しなかった。
小学校の二年生の時、東京の中野という街にすんでいました。
赤ちゃんの時にお父さんが亡くなった従兄が遊びに来ました。
普段から、お父さんは家に帰ってこなかったのに、お従兄ちゃんが来た時には、
早くから帰って来た。そうして、談笑していた。
私も二人に寄っていったら、「これができたら来ても良い。」って問題だされた。
まだ繰り下がり習っていないのに、2000-1=?ってだされた。
出来なくて出来なくて、いつまでもお父さんの所に行けなかった。
私は本当の子じゃないと思っていた。
3年生で大阪に引っ越した。5年生だったと思う。学校から帰って来たそのままの私に、
母は問題を出した、534×34+534×65(なんでもいいけど)って。
「えっと・・・534×34・・・・」って四則計算に沿って解きはじめたら、
『あーあ。この子は、アホなんやわ。あかんな。』って見捨てられた。
そう、結合法則を知らなかったから、合理的に解けなかった。
その両親を喜ばそうと、褒めてもらおうと、私は意地で数学を専攻した。
英語の方が得意だった。化学の方が好きだった。生物も、物理も好きだった。地学はケプラーの法則を実際に計算するあたりからついていけなくなったけど、
数学よりもっと楽に成績があがる科目はあった。でも数学に拘った。
ずっとずっと、両親に、あるいはどちらかにでいいから、認めてもらいたかった。
でも、そんな事は無いまま、父は亡くなった。
母も、プライドが高い人だから、私があまり知らない分野で知識をひけらかす。今でも。
どうして母は私に喰ってかかるのだろう。
そして努力した成果をどうして自分の手柄として奪ってしまうのだろう。
やっぱりあの結合法則を知らなかった時から…。
何かあったんだろうか。
東京から大阪に引っ越した辺りから殊更厳しくなったように思う。
最初から、子どもと競争する親なんているのだろうか。
私は、ただ、遊んで欲しかっただけ。
どうしてこうなっちゃったんだろう。
数学なんて出来無かった。もちろん今でも得意では無い。どちらかというと、ずっとギリギリで単位を取ってきた。
ただ、やっていると、それなりには、解るようになってきて、
勉強をしている時だけはそうっとしていてくれるから、
喧嘩もしないでいてくれるから、
数学の世界に避難していた。
けれど、そうして、いつまで数学をしても、その事については褒めて貰えない。
何か言うと、
『なによ、ちょっと、大学行ってるからって。』っていう。
平然と、『数学している人、って、おかしなるんやってな。』っていう。
昔、世良公則さんのラジオ番組で当選して、ご本人と話す機会に恵まれた事がある。
放送局からかかってきて、担当の人が、仕組みを説明して、一旦切るけれども、
今度は本人からかかってくるから、出て欲しいというものだった。
ドキドキしてまったのに、横で普段は「勉強だけしていればいい」という母は、寄って来て、
収録しているのに、自分の事を紹介してくれ、と、訳のわからない、進行を全く無視した言動にでた。
世良さんの進行の声にうまく反応できないくらい、横でうるさかった。
後で放送のために、おそらく母の声はうまく消したのだと思う。
今も、母は、タレントの、山本梓ちゃんのおばあちゃまと知り合いだそうで、
そればっかりいう。
コーラス仲間さんのご紹介も、
「○○という企業にお勤めの△△さんの奥さん、こっちは・・・」と御主人の肩書ばっかりをいう。
そんな事どうでもいい、どんな素敵なところがある女性なのか、その人を知りたいんだ。
有名とかそうでないとか、お金があるとかないとか、年齢が上とかしたとか、男性とか女性とか、
・・・・どうでもいい、魂の会話をしたいだけ。
だから・・・ちょっとでも、そういう、部分が醸し出されると、私は察知してしまう。
壁を作ってしまう・・・
人間は、自分の経験則に宛がって、人を推し量ってしまう愚かな生き物。
子どもの成長幅を奪いたくないから、私は敢えて引くところがある。
何かあって、怒っているんじゃない。出来ればよい方向に向けたいから、
何を一体困っているのか、正直に言って欲しいだけ。
欲があっても、プライドがあっても、そんなものどうでもいいというか、外してくれないと、
本当が見えない。
子ども達も勘違いする時がある。解決したいからこそ、正直に、見栄とか虚勢とか、外して言ってくれないと困るんだ。
私は、何も思わない。「・・・つい、嘘をついちゃったんだ。こうなるとは思わなかった。本当にごめん。」例えば、こうでも、
『そっか・・・悲しいけど、そんな事情があったんなら、そうなっちゃうときもあるよね、
人間だもん。』って話をしたいだけだよ。
だから、両親が私にしたような事の部分でもされると、途端に反応してしまう。
これを、たぶん、一般的には、トラウマ、っていうんだと思う。
両親が生きていたら、それだけではハッピーじゃない。そう思う。
不仲だったけど、母には、言った。生意気だけど言った。
「若いころは、私たちが幼くて、自分たち二人で過ごす時間も無かったと思う。
病気だけれど、病気だからこそ、自分たち二人だけの時間を持つことが出来たんだ。
もう残り少ない。どうか、その貴重な時間を二人っきりで過ごして欲しい。」
・・・通じなかった。
母は人にお願いする事が出来ない人。
「~してくれないかなあ。」が言えない人。だから、
「なんでしてくれへんのよ!!!」って言い方をする。
子ども頃は、全くこれが解らなかった。
事実として、月曜日、下の子の事でも、担任の先生、学年主任の先生、養護教諭の先生ふたり、
教務の先生と、私と下の息子で話をした。
難しい話をした。でも、やっぱり最後は、
『ひとり親なので、物理的にどうにも手が回らないんです。どうしても頑張っても頑張っても、
至らない処がいっぱい出てくると思うんです。でも、先生達に丸投げする気は毛頭ありません。
でも、やっぱり出来ない事が出てきます。お願いです、この子をどうか、助けて下さい!!!』
って、頭を下げてきました。
娘の関係者の皆様にもそうしています。ブログではちょっと強気にかくときがあるけど、
実際はそうしています。人様にご尽力していただくんだから。
それを、母に報告しました。案じてくれていると思うから。
でも、母は、言葉が下手なんだけれども、全く自覚がないので、
『そうそう、そう言うて、うまいこと言うて、先生、動かしたらええねん!』って言いました。
・・・・呆然。
・・・・愕然。
・・・・辟易する。吐く。
でも・・・父の時もそうだったけど、毎晩夜8時に父と病室に居るのが怖くて、
電話をしてきたのは、すっかり忘れているし、
「この、私が、そんなことするわけない!」って言ってきかないから、
もうそういう事にしています。
私も、こうしているけれど、一方で、子ども達は、私とは別個体であることも、同時に意識しています。
未成年だから、ある意味、家族というプロジェクトだから、親として、
私が先に死んでも自分でその日のごはんと寝るところを確保するだけの力はつけられるよう、
どうにかなんとか何かが残ったら・・・ただそれだけ。
ただそれだけのためにもがいている。
そうして何より、正直に言えない事も含めて、人様の事を理解できる人であってほしい・・・。
辛い耐える作業だけれどね。でも、それだけ。それだけなんです。
私は・・・命に応えたいだけ。
そう、謙虚で強欲です。
命に応えるなんて、大それた事、を、思う、不束者です。
ごめんなさい。
そして、ありがとう。
