心療内科医に聞く。 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

♪よこしま☆ちゃんの日常♪

~ ゆるゆる生きる ~

心療内科医に聞く。街に心療内科が急増しているのはなぜ?
「心療内科」と掲げられた病院を見かける機会が増えた昨今。何か理由があるのでしょうか。心身医学専門医で..........≪続きを読む≫


シェアします。私も心療内科にも行きました。経緯が詳しく書くと長くなるので割愛します。

①離婚裁判そのものストレス。
②生活圏が変わったストレス。
③擁護して貰えなかったストレス。
④父の死。
⑤修士課程の指導教官との軋轢と転籍。
⑥博士課程への進学と生活圏が変わったストレス。
⑦事務員からのイジメ。
⑧先輩からのイジメ。
⑨研究科長の急死。
これらが1~2,3年の間に起こりました。

どんな離婚でも喪失感があります。本来あるはずのものがない喪失感。だから裁判も一人でしていたんだから、健康診断のつもりで受診するよう弁護士にすすめられていました。しかし生活が多忙すぎて行けませんでした。特に父の死は困りました。夫婦が長きに渡って不仲だったため(母が離婚者というレッテルを貼られ、経済的に困窮するのを恐れ、実家に言えない、などの理由から絶対離婚には賛同しませんでした。さりとて父のそれには、協力的じゃ無い、困った状態が長い末の父の他界でした。)、死亡保険金の分配など色々。

私は一回外に出ているので、関わらせては貰えませんでした。そのくせ、私名義だと賭け金が安くリターンがあるから、払い戻しに関しては、私の書類と印鑑を請求するような母です。法律上は、被保険者に渡される。理解できます。でも、そこを弁護士なんか通じないで、実の娘で生活に困窮しているんだから、という考えは母には無かったようです。立派な御寺にお墓を建て、御仏壇もそこそこのものにしました。父の実家にだけは母は渡さなかったのです。それに殆ど当てました。そうして、同居していた、その時ほぼぷー太郎の弟の車が新車になりました。愕然としました。それで、小さな団地で、もう自分の還る家族は無いのだと、悟りました。そうして、強い鬱病に落ちたんです。

この時にも離婚の時の弁護士さんに相談しました。弁護さんも女性で私と同じ時期に実は離婚されています。男の子二人連れて。専門職ですが、厳しい世界の弁護士。怖い人とも対決しなければなりません。小柄な女性の弁護士だったので、相談したあと、体調を崩されたと聴きました。仕事が山積していたのだと思います。その弁護士さんも実母とうまくいってなかったみたいです。それほど離婚というものには偏見があったのですね。今でもそうかもしれませんが。

で、その時、私の様子が、もう明らかに鬱状態であるので、「敷居が高いと思いますが、もう、心療内科の域では無く、精神科に行って下さい。ご紹介しているお医者さんがあります。」そこで問診していただいて、鬱病という名称をいただきました。

奈良女子大大学院。名前は立派です。でももう時代は皆高学歴。それくらいで子どもを二人抱えた事もが何か定職に就くのは無理でした。奨学金の事もあります。なので、留年しないで、進学する必要がありました。准教授だったので、博士課程の面倒は当時見れないですから、渡り歩いて結局、今の所に拾って貰いました。

学生は、3人の先生に基本的には見ていただきます。学会では他大学の方と交流がありますが、基本は学内の同じ専攻の教授の皆さん三人です。で、お一人予定していた先生が、急逝なさいました。研究科長で、世界的権威な方でしたから、大学も世界も5年くらい揺れました。その先生の御名前のついた賞や、国際会議は今でも存続しています。

事務員さんも苦労されていました。彼女は大企業の社長さんのご令嬢ですが、留学した先のトルコで、恋に落ち、国際結婚をしたのに、離別となり、その裁判は困難だったそうです。そうして、やっと引き取ってはみたけれど、中東の国のパートナーとの間の息子さんは、やはり見た目から奇異な目でみられたそうで、だからこそ、著名や難関大学の附属の学校に入れる必要があったようなんです。彼女は実家に戻ってはいますが、肩身は狭い思いをしていたようで、やはり心が疲れ切っていました。

本来なら、協力するべき間柄なのに、それが出来ないくらい、皆さん疲弊していて、それでも自分を追い込みました。家に居場所が無かったんです。私も学会に息子を連れて行った事もあります。勿論その参加費用は大学から出ませんから、私費になります。カツカツです。それでも、母は、「勝手に出て行った。」と言いました。居づらくて出て行ったという理解は皆無です。

彼女は学歴にコンプレックスがありました。勿論当時も奨学金があったのですが、祖父が自分の収入の低さを世間さまに解られるのが嫌なようでした。武士はくわねど、ってあれを地で行く祖父でした。ただ、偏屈もので、仕事が続かなかったという話もあります。徴兵されて前線で、心が壊れて帰って来たのでしょう。祖父は当時の国にとって名誉な事をした。でも、戦争が終わって、廃人のようになって、社会生活が出来なくなった。それがずっと後を引いている。

なんだか切ないです。だからこそ、それだけ苦労をされてきた、年長者に私は甘えません。昨日、立派な席を「先輩はこっちを使って下さい。」と中国からの留学生の女子学生さんにいわれて、それは彼女が重んじている事ですから、それはどうも、と受け容れましたが、それで、だからと言って、私は彼女にアドバイスなんて出来ません。とてもとても優秀な子です。美しい日本語を遣います。「恐れ入ります。」ありがとうございます、じゃなくて、「恐れ入ります」です。

それを聴いて私も、「日本人でありながら、貴女のような美しい日本語を身につけて来なかった事が切ないです。チャンスにも恵まれませんでした。貴女はそれらをどこでどうやって覚えたのですか?」すると彼女は教えてくれました。NHK教育テレビの外国人向けの日本語講座です。と。なるほど、本当に灯台もと暗し、だと思いました。

日本人だから、日本語が出来ると思っている。思いこんでいる。私のすることは山積しています。このように、とても言葉というものに、敏感な研究室です。コンピュータサイエンスなのに、不思議でしょう?けれど、自分の研究を説明するのは言葉です。言葉に真摯であれ。知に真摯であれ。なるほど、初心者の方へほど、入口を正しくしないと、混乱を招いてしまう。だからこそ、卓越した論理構造の確かな、つまり、文法の美しいそれらを呈示し、学び、訓練させているのだな、と拝察できました。

Eテレ大好きっ子!!オンデマンドサイトで勉強します!!まず、美しい母国語からでないと、外国語も習得できない。クラシックを学ぶ大切さはここにあるのだと思います。ですので、例えば歴史教科書でも、まるで、昔の行いが誉れなだけのように書き記しているそれらは適していないと考えます。これまでの、行政の人は、どんな創意工夫で民衆を助けたのか。それこそ下衆の苦しみから救ったのか。それらの解説歴史書の方が、少なくとも私には理解できたと、振り返っています。今からでも遅くないから、子ども達の教科書を見てみよう。

私は子ども達が教科書購入を終えて帰ってきたら、名前を書くとともに一番後ろを開いて、選考委員や編集委員の御名前を見ます。この人達が協力してこれらを作成したのか、という事と、ある程度の方向が見えるからです。

おそらくこれらにストレスがあるので、辛いのでしょうね。いつから多数=正しい、になったのでしょう。悲しくて仕方ありません。

鬱病だから悲しいのか、悲しいから鬱病になるのか、解らなくなって来ましたが、今こうして書いていて解りました。

悲しいと言う字は、心非ずと書くんですね。何とも切ない漢字ですね。そもそも漢字自体、女性には使用を許されてきませんでした。今は使ってもいいのです。有難い時代です。なので、後ほど興味を持った言葉は辞書で調べますが、用途によって使用する漢字が違うその事実則り、漢字辞典もよく調べます。漢字の成り立ちから意味を推測できるからです。

ちなみに余談ですが、推測と、推量と、憶測は全て、それぞれ違う概念です。これらを混同している人とは、私はすみませんが、御話が難しいのです・・・ごめんなさい。