ブログタイトルと華甲 | ♪よこしま☆ちゃんの日常♪

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~ ゆるゆる生きる ~

またか、と思われる方がおいでかもしれませんね(苦笑)。


そうですね。インターバルが短かったかもしれません。


今思うと、もがいていたんだと思います。


覚悟が決まっていなかったんですね。


お恥ずかしいです。


私は、言葉に心を奪われる子どもでした。


それは今も変わりません。


どれだけ理由を考えても、どうしても、そうなるのです。


仮に、人生を80年とすると、半分以上、考えて考えて考え抜いて来ました。


けれども、やはり、結果は、そうなってしまうのです。


ですので、もう、理由探しは止めました。


自分を享け入れる事にします。


正確に言うと、もう、これだけ考え抜いたんだから、と、


自分を解放してあげたくなったのです。



いつだったか、だれだったかの、なんのことない言葉に、


囚われていたんです、ずっと。



それはどんな言葉に特化しているのか、


やはり理由はありません。



ふと、気になって心に沁みついてしまうのです。


住みついてしまうのです。



人生の半分を御付き合いさせていただいたのだから、


そろそろ、その言葉から・・・、いいえ、


その言葉さんに旅立ってもらおうと思います。



ごめんなさいね。


もう十分過ぎるくらいに、お付き合いさせていただきましたよ。


これ以上、私の元に居たら、駄目です。



もう、あなたたちを、折り返しの人生にお連れする訳には参りません。



そういう気持ちです。



本来の私であること、それは自分にとって素直であることであり、


シンプルであることではないかと、思いました。


思考錯誤している間だったため、もがいていましたから、


タイトルも、二転三転しました。



ごめんなさい。もがいていた事にも、思考錯誤していた事にも、


気付かなかったんです。


そう、私は、時間があると、ふと、考え込む癖があります。


『どうして、こうなっているんだろう?』


『どうして、そう振る舞うんだろう?』


と。



そうして、そこには理由があると思っていました。


事実、そうだと思います。


直接的であるにしろ、間接的であるにしろ、湾曲的であるにしろ、


人の言葉や行動には、何らかの理由があるのだと。



私と関わった方、それぞれに適した様に、


お付き合いさせていただいて参りました。



ただ、それを大切にし過ぎたばかりに、


なかには、結果として、相手の方を甘やかす事になってしまった場合もあります。


ごめんなさい。


もう、十二分に、愛情は注いできました。


いつしか、それが当たり前になるくらいに、毎日毎日注いでいたからこそ、


あなたが横柄になって行ったのです。


私の愛が大きすぎました。


それは、世の中では、溺愛、というのだと思います。


もはや限度を超えて、愛ではなくなってしまいました。



だから、もう、旅立ちの時を迎えて下さい。


大丈夫です。


そんなに、人生棄てたもんじゃありませんよ。


今まで見れなかった物事に、そうっと目を向けて、


鎮かに、見ていたら、きっと見えてくるはず。


いろんな形で、あなたに、いろんな方が、愛を注いでくれていた事に気付きます。



もう、持てますね。


あなたの人生に、本来あなたが持って行くべきものを。


もう、私が持たなくても大丈夫な時が来ました。


旅立ちです。


あなたも、私も。


そういう気持ちからタイトルを変えました。



私は私らしく。


それは私が私で在る事を享け入れるということ。


それを赦す、という事。



私の本名には、『華』という字が入っている事は、


いつかの記事に書きました。


日本語で分かってしまうのは、このブログの真意ではないので、


英語で探してみたら、


『華』に対応する言葉が本当にたくさんあるのですね。


信じられませんでした。



そもそも、この、『華』、親には大変申し訳ないのですが、


これまでは余り好きではありませんでした。


私の年代で、この字を使っている人がいなかったので、


どの学校でも、孤立している感じがしていました。


中には、違う国籍で(別に私は気にしていませんが)、


通称名を使っているのではないか、と、勘繰る人もおいででした。


まあ、太古の昔、大陸から、渡って来て、


地形が変わって島国になったのでしょうから、


大陸のうちのどこかの国に先祖があるのでしょうし、


それは女性だけに遺伝する、ミトコンドリアの型を調査すれば、


案外簡単に見つかります。



若い頃の私には、周辺のみなさんが、


邪推されているように映ったのだと思います。


もう一つは、この漢字、どうも表面上の栄え、というか、


そのような感じに、私が受け取っていたのです。


実がないのは、地に足がついていないようで、


それはよろしくない事だと、母から教わっていたのです。



こう書くと、相対するように見えるかもしれません。


事実、私は自分の中で大きな価値観二つで分断されていたような時期が、


本当に長くありました。


けれども、自分を二つに分けることはないのです。


両方の強い意志を受け継いで、今の私があるのですから。



さきほど、『華』の意味を漢字事典で調べていて、知った事実があります。


このタイトルにも書きましたが、『華甲(かこう)』という言葉があるんですね。


これは、論語の考え方らしいのですが、


『華』という字を、六十と一に分けるのだそうです。


そして、『甲』というのは歳を表しているのだとか。


昔の年齢ですから、数えの年齢です。


数えの六十一歳を表します。


それを知って、腰を抜かすほど、驚きました。



実は、


私にこの『華』を使った名前を付けた父が亡くなった歳は、


まさに、『華甲』だったからです。



偶然にしては、一致し過ぎて、


そして、今、理由を探さない様に決めた時に、


見つかって、何とも不思議な感覚なのですが、


強い力で導かれる時と言うのは、


浮遊した状態になるのは、昨年末当たりから、経験していることなので、


不思議ではありますが驚きません。



父が命を全うした事を、ようやく享け入れられた気がします。


周囲の配慮から、父の臨終に立ちあえなかったので、


どこかしら信じていない自分がいたのだと思います。



本当に強くて強烈な人だったから、晩年からずっと、


夢を見ているように享け止めていたのだと思います。



とてもとても長い、前置きでしたね。



『FLOWERLY』には、


華やかな、という意味があるんですって。


♪♪♪ FLOWERLY LOVELINESS ♪♪♪


=華やかに愛らしく



色々手放した上で、享け止めた自分自身のブログが、


また、今日から始まる気分です。



どうぞ宜しくお願いします。