またか、と思われる方がおいでかもしれませんね(苦笑)。
そうですね。インターバルが短かったかもしれません。
今思うと、もがいていたんだと思います。
覚悟が決まっていなかったんですね。
お恥ずかしいです。
私は、言葉に心を奪われる子どもでした。
それは今も変わりません。
どれだけ理由を考えても、どうしても、そうなるのです。
仮に、人生を80年とすると、半分以上、考えて考えて考え抜いて来ました。
けれども、やはり、結果は、そうなってしまうのです。
ですので、もう、理由探しは止めました。
自分を享け入れる事にします。
正確に言うと、もう、これだけ考え抜いたんだから、と、
自分を解放してあげたくなったのです。
いつだったか、だれだったかの、なんのことない言葉に、
囚われていたんです、ずっと。
それはどんな言葉に特化しているのか、
やはり理由はありません。
ふと、気になって心に沁みついてしまうのです。
住みついてしまうのです。
人生の半分を御付き合いさせていただいたのだから、
そろそろ、その言葉から・・・、いいえ、
その言葉さんに旅立ってもらおうと思います。
ごめんなさいね。
もう十分過ぎるくらいに、お付き合いさせていただきましたよ。
これ以上、私の元に居たら、駄目です。
もう、あなたたちを、折り返しの人生にお連れする訳には参りません。
そういう気持ちです。
本来の私であること、それは自分にとって素直であることであり、
シンプルであることではないかと、思いました。
思考錯誤している間だったため、もがいていましたから、
タイトルも、二転三転しました。
ごめんなさい。もがいていた事にも、思考錯誤していた事にも、
気付かなかったんです。
そう、私は、時間があると、ふと、考え込む癖があります。
『どうして、こうなっているんだろう?』
『どうして、そう振る舞うんだろう?』
と。
そうして、そこには理由があると思っていました。
事実、そうだと思います。
直接的であるにしろ、間接的であるにしろ、湾曲的であるにしろ、
人の言葉や行動には、何らかの理由があるのだと。
私と関わった方、それぞれに適した様に、
お付き合いさせていただいて参りました。
ただ、それを大切にし過ぎたばかりに、
なかには、結果として、相手の方を甘やかす事になってしまった場合もあります。
ごめんなさい。
もう、十二分に、愛情は注いできました。
いつしか、それが当たり前になるくらいに、毎日毎日注いでいたからこそ、
あなたが横柄になって行ったのです。
私の愛が大きすぎました。
それは、世の中では、溺愛、というのだと思います。
もはや限度を超えて、愛ではなくなってしまいました。
だから、もう、旅立ちの時を迎えて下さい。
大丈夫です。
そんなに、人生棄てたもんじゃありませんよ。
今まで見れなかった物事に、そうっと目を向けて、
鎮かに、見ていたら、きっと見えてくるはず。
いろんな形で、あなたに、いろんな方が、愛を注いでくれていた事に気付きます。
もう、持てますね。
あなたの人生に、本来あなたが持って行くべきものを。
もう、私が持たなくても大丈夫な時が来ました。
旅立ちです。
あなたも、私も。
そういう気持ちからタイトルを変えました。
私は私らしく。
それは私が私で在る事を享け入れるということ。
それを赦す、という事。
私の本名には、『華』という字が入っている事は、
いつかの記事に書きました。
日本語で分かってしまうのは、このブログの真意ではないので、
英語で探してみたら、
『華』に対応する言葉が本当にたくさんあるのですね。
信じられませんでした。
そもそも、この、『華』、親には大変申し訳ないのですが、
これまでは余り好きではありませんでした。
私の年代で、この字を使っている人がいなかったので、
どの学校でも、孤立している感じがしていました。
中には、違う国籍で(別に私は気にしていませんが)、
通称名を使っているのではないか、と、勘繰る人もおいででした。
まあ、太古の昔、大陸から、渡って来て、
地形が変わって島国になったのでしょうから、
大陸のうちのどこかの国に先祖があるのでしょうし、
それは女性だけに遺伝する、ミトコンドリアの型を調査すれば、
案外簡単に見つかります。
若い頃の私には、周辺のみなさんが、
邪推されているように映ったのだと思います。
もう一つは、この漢字、どうも表面上の栄え、というか、
そのような感じに、私が受け取っていたのです。
実がないのは、地に足がついていないようで、
それはよろしくない事だと、母から教わっていたのです。
こう書くと、相対するように見えるかもしれません。
事実、私は自分の中で大きな価値観二つで分断されていたような時期が、
本当に長くありました。
けれども、自分を二つに分けることはないのです。
両方の強い意志を受け継いで、今の私があるのですから。
さきほど、『華』の意味を漢字事典で調べていて、知った事実があります。
このタイトルにも書きましたが、『華甲(かこう)』という言葉があるんですね。
これは、論語の考え方らしいのですが、
『華』という字を、六十と一に分けるのだそうです。
そして、『甲』というのは歳を表しているのだとか。
昔の年齢ですから、数えの年齢です。
数えの六十一歳を表します。
それを知って、腰を抜かすほど、驚きました。
実は、
私にこの『華』を使った名前を付けた父が亡くなった歳は、
まさに、『華甲』だったからです。
偶然にしては、一致し過ぎて、
そして、今、理由を探さない様に決めた時に、
見つかって、何とも不思議な感覚なのですが、
強い力で導かれる時と言うのは、
浮遊した状態になるのは、昨年末当たりから、経験していることなので、
不思議ではありますが驚きません。
父が命を全うした事を、ようやく享け入れられた気がします。
周囲の配慮から、父の臨終に立ちあえなかったので、
どこかしら信じていない自分がいたのだと思います。
本当に強くて強烈な人だったから、晩年からずっと、
夢を見ているように享け止めていたのだと思います。
とてもとても長い、前置きでしたね。
『FLOWERLY』には、
華やかな、という意味があるんですって。
♪♪♪ FLOWERLY LOVELINESS ♪♪♪
=華やかに愛らしく。
色々手放した上で、享け止めた自分自身のブログが、
また、今日から始まる気分です。
どうぞ宜しくお願いします。