3 もつれる糸 | 南域結界☆ ジェルソミーナ

3 もつれる糸

 シトラビンスは、目尻を指で押し上げた。
 寝不足な上に、こんなに楽しみな事が続いてしまったら、ただでさえ下がっている目尻が、ほっぺたにくっついてしまう。
(私もそろそろお休みしましょ……)
 立ち上がろうとした瞬間、いつもの緩慢な動作からは信じられないほど、素早く、シトラビンスは柱の陰へ逃げ込んだ。
 一瞬遅れて、扉が開いた。

 青ざめた顔の宰相が、上着に腕を通し、飛び出してくる。
(……)
 准佐の見つめる目の前で、厳しい表情のまま、辺りに目を配り、宰相は、足早に歩き始める。

 思わず後を尾(つ)けていってしまうのは、諜報部員の悲しいところだろう。
 どんな早歩きも、シトラビンスほどの熟練の者になると、付いて行けないようなことは無くなるが、それにしても急いでいる。
(どちらへ行かれるのかしらん……)
 何度も何度も、暗く曲がりくねった階段を登り、廊下を曲がるうちに、シトラビンスも心配になってきた。
(まさか、まさか、この時刻に、こんな夜明け前に、皇帝陛下の寝所へ?)

 その、まさかであった。
 ためらいもなく、キーツ宰相は、番兵の前を通り過ぎて行く。
 その急襲に、番兵も彼を止めることができない。
 シトラビンスも軽く会釈をして通り過ぎた。
 雨音が遠ざかっていく。
 絨毯の厚みに溶け込んでいくようだ。
 そして目の前に、宝石を散りばめた、青い華麗な扉が現われた。

 突然の宰相の訪れに、皇帝の寝室を守る番兵が、びくりと背筋を伸ばす。宰相は歩く速度を緩めない。
 さすがにこれには番兵も慌てた。
「あ……っ」
 呼び止めようと手を伸ばした瞬間、宰相は、青の扉には進まず、右の通路へと抜けた。
 バルコニーへ続く、格子扉が開いている。
(姫様っ!)
 バルコニーを抜ければすぐに、王女の寝室の裏窓へは、近い。
 シトラビンスは、雨の降るバルコニーへ飛び出した。藤の編み物で包まれたテラスが、雨に濡れて光っていた。
 だがキーツは、格子戸の傍から動いてはいなかった。
 バルコニーの壁に並べて掛けられた、ランタンの明かりを目で追い、その一番奥に、闇の中に浮かぶようにしてある、光いっぱいの窓を見ていた。

「誰か」
 シトラビンスが首を引っ込めると同時に、先ほどの番兵が返事をかえした。
「はっ、閣下」
 おもむろに、不気味なほどゆっくりとした動作で、光溢れる「窓」を指さす。
 宰相は、王女の部屋に、灯かりが点いている訳を尋ねた。
「結界師様がお越しです。姫様がどうしても、編物を教えて頂きたいと……」

 長い沈黙が続いた。
 雨音が、この時ばかりは特に、耳についた。
 宰相は何も言わなかった。何も言わずに、建物の中へと戻った。
 シトラビンスはずぶ濡れの宰相の体を気遣ったが、結局、姿は現わせないでいた。
 宰相の部屋から、王女の部屋の灯かりが、見えたのであろう。
 長雨の続かないロードにしては珍しく、この日は明け方まで雨が降った。
 妙な夜であった。

 シトラビンスが最後に尾(つ)けた時、宰相の部屋の方角から、扉の、力まかせに閉まる音が聞こえた。


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