5 鏡の微笑
そして正面には、キーツの姿。
血走った目で、帰る家のない小犬のような、不安な表情の宰相の姿。
そして彼のすぐ後ろで、銀色の豪華なスカートの裾を引き、こちらを振り返る貴婦人の姿。
貴婦人は、穏やかに彼へ微笑みかけた。
「あ……」
彼のとまどいに答えるように、肩越しに、優しく笑ってみせる。
キーツは後ろを振り返ってみた。部屋の中には、あの窓際のマチルダとレイリ、二人の少女しかいない。
けれど、目の前には確かに、鏡の中には確かに、彼の肩が触れそうなほどの距離に……。
女は何も言わずに、ただ愛しそうに彼を見つめている。
そうしているだけで幸せなのか、気品と慈愛に満ちた目は、決して彼から外れることはない。
「……嘘だ……」
貴婦人は鏡の中で一つ、語りかけるようなまばたきをして、
「……」
外のベランダの方角を指差した。
キーツは泣き腫らした目で問いかける。
女は優しく彼に笑って見せ、もう一度、ベランダを指差した。
「キーツくぅん?」
おぼつかなく立ち上がった彼を、マチルダが不思議そうに見ている。キーツは吸い寄せられるようにベランダへ出、手すりに掴まりながら、指差された方角へ歩き始めた。
太鼓の音がかすかに聞こえる。
ラッパだろうか、人々の歓声も近い。
彼はよろめきながら、細いベランダを伝う。
階段を行き、跳ね梯子を渡る。塔に出る。下界を見晴らす、見張り台の上。吸い寄せられるように、彼はそこに辿り着く。
『もう会わないと言ってくれる方が
余程 楽になれるのにと思う
つまらない女だと言って捨ててよ
好きな人ができたと言って捨ててよ
本当の思いはあなただけにしか分からない』
耳障りな歌が聞こえている。キーツは眉間にしわを寄せて、この騒ぎを眺めまわした。
なんの騒ぎだろう。
この見張り台からは、町全体が一望できる。大通りではパレードが始まっている。民家の屋根屋根には、赤や黄色の看板が飾り文字で、大きく掲げられている。
「さようなら6041年。皇帝陛下、万歳!」
もうそんな時期になったのか。
彼は我に返った。私室に閉じこもっていたので分からなかったが、そういえば、年が明けてもおかしくない頃だ。
明日、花火が上がる予定の岩山の中腹から、早すぎる祝砲が一発上がった。
『余計なおしゃべりならいくらでも与えてくれる
ひだまりの中のスズメのように
優しい手招きなら夜の底に忍んで
ムクドリのように与えてくれる
でも肝心な言葉は 見あたらない』
道化師の放つ甲高い笑い声に紛れて、やはり歌声が聞こえてくる。
苛つく歌声だ。彼は耳を塞いだ。元々、彼はこういう遊びは好きではない。皇帝とのつきあいで、無理矢理、声楽隊やらオーケストラの演奏会に引っ張り出されることもある宰相だが、例外なく、第一幕の頭で退出しているほどである。
(いやな季節になった)
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血走った目で、帰る家のない小犬のような、不安な表情の宰相の姿。
そして彼のすぐ後ろで、銀色の豪華なスカートの裾を引き、こちらを振り返る貴婦人の姿。
貴婦人は、穏やかに彼へ微笑みかけた。
「あ……」
彼のとまどいに答えるように、肩越しに、優しく笑ってみせる。
キーツは後ろを振り返ってみた。部屋の中には、あの窓際のマチルダとレイリ、二人の少女しかいない。
けれど、目の前には確かに、鏡の中には確かに、彼の肩が触れそうなほどの距離に……。
女は何も言わずに、ただ愛しそうに彼を見つめている。
そうしているだけで幸せなのか、気品と慈愛に満ちた目は、決して彼から外れることはない。
「……嘘だ……」
貴婦人は鏡の中で一つ、語りかけるようなまばたきをして、
「……」
外のベランダの方角を指差した。
キーツは泣き腫らした目で問いかける。
女は優しく彼に笑って見せ、もう一度、ベランダを指差した。
「キーツくぅん?」
おぼつかなく立ち上がった彼を、マチルダが不思議そうに見ている。キーツは吸い寄せられるようにベランダへ出、手すりに掴まりながら、指差された方角へ歩き始めた。
太鼓の音がかすかに聞こえる。
ラッパだろうか、人々の歓声も近い。
彼はよろめきながら、細いベランダを伝う。
階段を行き、跳ね梯子を渡る。塔に出る。下界を見晴らす、見張り台の上。吸い寄せられるように、彼はそこに辿り着く。
『もう会わないと言ってくれる方が
余程 楽になれるのにと思う
つまらない女だと言って捨ててよ
好きな人ができたと言って捨ててよ
本当の思いはあなただけにしか分からない』
耳障りな歌が聞こえている。キーツは眉間にしわを寄せて、この騒ぎを眺めまわした。
なんの騒ぎだろう。
この見張り台からは、町全体が一望できる。大通りではパレードが始まっている。民家の屋根屋根には、赤や黄色の看板が飾り文字で、大きく掲げられている。
「さようなら6041年。皇帝陛下、万歳!」
もうそんな時期になったのか。
彼は我に返った。私室に閉じこもっていたので分からなかったが、そういえば、年が明けてもおかしくない頃だ。
明日、花火が上がる予定の岩山の中腹から、早すぎる祝砲が一発上がった。
『余計なおしゃべりならいくらでも与えてくれる
ひだまりの中のスズメのように
優しい手招きなら夜の底に忍んで
ムクドリのように与えてくれる
でも肝心な言葉は 見あたらない』
道化師の放つ甲高い笑い声に紛れて、やはり歌声が聞こえてくる。
苛つく歌声だ。彼は耳を塞いだ。元々、彼はこういう遊びは好きではない。皇帝とのつきあいで、無理矢理、声楽隊やらオーケストラの演奏会に引っ張り出されることもある宰相だが、例外なく、第一幕の頭で退出しているほどである。
(いやな季節になった)
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