「無明の闇」を永久に断つ、、、、
九八の「顕」のブログへようこそ、、、、
はんげつじゅんさん、リブログありがとうございます。
何かの教義や真理などを、学んだり、習ったり、理解したりして、、、、
それを自分に当て嵌めて活かして体得して行くと言うありようでは無いのです。
今のご自身の「法身」が、どのように働いているのか、、、、
その真相に、実証されて行く道なのである。
何かを学べば学ぶほど、余計な観念が増えるだけであり、、、、
それだけ、偏見と先入観と迷う素材が増えるだけなのです。
ゆえに、知った事が問題を起す訳です。
知った事、理解した事と、ご自身の天然自性の活動は、何の関係も無いのです。
知った事は総てが過去の事であり、今の事実とは一切の拘わりが無いのである。
常に而今の縁だけしか、役に立たない出来栄えに成っているのです。
何かの縁に触れた瞬間に、その環境自体と成って動くのである。
ゆえに、その時でないと「法身」はどう動くか絶対に分からないのです。
即ち、考えたり、心配したり、思い煩う事が要らないように成っている。
もし、考えたり、心配したり、思い煩う事が生じたら、、、、
それらに心を付けない事であり、心に移さない事である。
多くの人は、今ご自身がどのように動いているのかを、全くご存じないのです。
想像やイメージや思いだけに成っている為に、常に而今が抜けているのです。
ゆえに、無条件に安住する処が無い為に、いつも不安定なのです。
苦悩の「無明の闇」の中を手探りで、彷徨っているのです。
常に在りもしない幻を追い掛け回しているので、ご苦労が絶えない訳です。
誰もがこぞって、幻を追い掛け回しているから、疑問にも思わないのです。
ゆえに「無明の闇」の中から、抜け出そうと言う発想も出て来ない訳です。
自らの心を見る事である。
今の心の動きを見よ。
心が何に囚われているのか?
何を貪っているのか?
何を探し求めているのか?
何を得ようとしているのか?
何に愚痴っているのか?
何に怒っているのか?
何に燃えているのか?
何に不満があるのか?
何に染まっているのか?
そこに世情的な憂いはないか?
そこに世情的な貪欲はないか?
そこに一切の残りモノがないのであれば、、、、
心も無いのである。
何か残りモノがあるのならば、独り静かに、心を制する事である。
総てが、唯ひたすらにご自身独りだけの活動なのである。
他が一切出て来ない生活なのです。
自らの心を見る事である。
今の心の動きを見極めよ。
この事実が、否が応でも実証されて来るのである。
これまでの繋がり、わずかな思いも、わずかな未練も残さずに、、、、
一切が敢然と断ち切られているのである。
苦悩の「無明の闇」の結び目をほどき、ゆったりと安心・満足・平和と為す。
何かを求めている人には、欲と言うモノが根底に有るのです。
それゆえに、発端の出発点から方向が狂っているのです。
その欲を捨てて素直に「声聞・縁覚」する事で始めて真相に縁するのです。
声聞はすれど、我も仏も無かれけり、永久に何処にも行かぬここにおる。
真の時は『弥陀の一声』南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、、、、
これまでに、対面・電話・Skype・zoom声聞等を、一度でも受けた人は、
「縁覚点検」を、随時こまめに何度でも、ご利用する事をお勧め致します。
極めて尊く稀なご縁でごさいます。
何を問えば良いのか分からないと言う人は、、、、
【縁覚点検お願いします】と、書いてください。
お電話にて30分~60分程の点検を(電話代込み)無料で実施しております。
これが、甚だ効果的なのである。
狂った方向へ攀じ登って行き、何時までも貪っている為に、、、、
「佛果」が伴わないのである。
その都度、軌道修正をこまめにやりながら、、、、
ご自身の永遠の真相である「一仏乗・独尊」阿弥陀仏に目覚めるのである。
縁覚点検はあくまでも点検であり、声聞とは違います。
素直な疑問・質問が、ご自身を救うのです。
ご自身がご自身を救う事に、絶対に遠慮などしないで下さい。
本気に成って、一心一途に信心決定するのです。
ブログのメッセージ欄、ショートメールから、お待ちしております。
ご無沙汰している方はデータが無いので、一度ご連絡して下さい。
「九八の個人声聞」セッション
「ゆみの個人声聞」セッション
ゆりさんイタリア語・バージェスあつこさん英訳サイトです。
本日もお越し頂き、、、、
これを以って「法の供養」と為す。