いよいよ地球規模での食糧危機が現実のものとなりつつある。日本でも遅ればせながら、食糧自給率向上の大合唱が始まっている。
それでも、「いざとなったら都会はダメでも田舎へ行けばまだ大丈夫」なんて思っている人もいるのではないだろうか。私もなんとなくそう思っていた。大変な事態になる前に、田舎へ移住するか田舎との二重生活で自給自足をすればナントカなる、と勝手に都合よく思っていた。
先日、田舎でBBQをしたのだが、「田舎には野菜なんか腐るほどあるだろう、田舎暮らしの知人からおすそ分けしてもらおう」と肉類だけ買っていった。ところが見事に当てが外れた。野菜は、すでにとうが立って“えぐみ”の出てきたオバサン(オジサン)?タケノコしかなかったのだ。聞けば、「今は野菜の端境期で食べられるものはない」とのこと。
もちろん、今や日本ではどんなド田舎でも、金さえあれば車を走らせてスーパーで野菜(ただし地物ではない)はじめあらゆる食料を調達できる環境にはなっている。しかしそれでは、いつ食糧が店頭から消えるか分からない危ない都会となんら変わらない。
農協の「野菜カレンダー」を見ると、ゴールデンウィーク頃が収穫期の野菜はキャベツ、タマネギ、ホウレンソウ、インゲン、小松菜、サニーレタス、...、と結構あるはずなのだが、今回BBQをした田舎は米作中心で、野菜はあまり作っていないようなのだ。都会人が遊び半分でやっている家庭菜園と同じで、ネギなどの常備野菜以外は、少量なら大半の野菜は作るよりスーパーで買った方が手間もかからないし安い。
以前、大江のスーパーで長崎の人参を売っているのを不合理に思ったものだが、米農家は米だけをつくり、野菜農家は野菜だけを作り、農業はあくまで副業で勤めに出て金を稼ぎその他の食糧はスーパーで買う、効率重視の工業社会的分業が農業の世界にもできあがっている。野菜専業農家がハウスで多くの石油燃料を消費して出荷調整しているおかげ?で、スーパーへ行けば年中野菜が手に入る。しかし、巷間言われているように石油燃料もいずれ逼迫してくるだろう。
価格が高かったり必要度が低ければ買わなければよいという、市場任せにできる工業製品と違って、食糧は生きるために一定量は絶対に必要なものである。現在のような分業農業によって食糧供給を安定的に持続させるためには、政治的な生産者・消費者双方への価格保証制度は不可欠だ。しかし、「価格保証なんかすれば農家は制度に甘えるし、また新たな利権構造を生む」という声もあるだろう。それも一理ある。
そこで、生活の最小単位である世帯ごとに市場と関係なく食糧自給できる制度として、「平成の農地改革」をしてはどうだろうか。せめて自分達の食べる分くらいは自給したいと考える人達がいても肝心の農地を持っていない一方で、多くの遊休地を抱えながら貸し出しこそすれ手放そうとしない不在地主がいる。不在地主のほとんどは、土地の奪い合い・私有化の歴史の過程でたまたま先祖が自分のものとした土地をタナボタで引き継いだ人たちだ。
そんな土地私有者から、生活のために必要最小限の50~100坪程度の土地を残して余剰の土地を全て国が接収し、一人当たり100坪程度を日本全国各世帯に人数に応じて食糧自給生産用地として再配分し貸し出すのだ。10年ごとくらいに世帯人数の見直しと農地の再配分を行う。
「何をバカみたいなことを」と思われるかもしれない。しかし、そのくらいの改革を敢行しなければ根本的な解決はできないだろう。「官僚、役人」に農政の責任を押し付けて逃げ切ろうとする姑息な政治家もいる。確かに腐りきった「官僚、役人」は多いかもしれない。がしかし、そんな連中が発生するのも土地の私有・相続制度によるウマミ・利権構造があればこそだ。