真言宗智山派
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人身(にんじん)受け難(がた)し、
いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身(み)今生(こんじょう)において度せずんば、
さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。
大衆(だいしゅう)もろともに、
至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依し奉る。
まさに願わくは衆生とともに、
大道を体解(たいげ)して、
無上意を発(おこ)さん。
自ら法に帰依し奉る。
まさに願わくは衆生とともに、
深く経蔵に入りて、智慧海(ちえうみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依し奉る。
まさに願わくは衆生とともに、
大衆を統理して、
一切無碍(いっさいむげ)ならん。
「人身受け難し、いますでに受く。」とは、人の身としてこの世に生を受けることの難しさを超えて、私がいまここに生存し得ていることの尊さ、有り難さへの謝念と感動の言葉でありましょう。何億分の一かの確率で実を結んだこのいのち。はたまた、犬や猫として生まれていたとしたら、いのちの尊厳はいかに?…。
そんなことに思いを巡らすと、いまここに私が人のいのちをいただいて存在していること自体「有ること難き」ことであり、九牛の一毛の可能性の上に乗っかっている存在であると感じざるを得ません。この存在、不可思議(人間の頭で考えることができない)なご縁のお陰というほかありません。
本来は「無・ゼロ」、存在し得ないのが当たり前の存在。その当たり前を打ち破って存在し得ていることは、難きが中のなお難いこと。まさに「有り難い」世界。「有り難い」という日本語は実に素晴らしい言葉だと思います。「有り難う」は、英語の「thank you」や中国語の「謝々」のように何かをしてくれて人に対して言う、単なるお礼の言葉ではないのです。私たちを取り巻くすべてのもののご縁とご恩に対する感動と謝念の言葉なのでしょう。
「すべての存在は、例外なくご縁によって生まれ、ご縁が欠ければ消えてゆく」というのがお釈迦さまの基本的な教えです。縁起法、因縁法ともいいます。いまこの瞬間瞬間ご縁によって成り立っているのです。私があってご縁をいただくものと考えがちですがそれは間違い。ご縁以外に私はない、私は本来空・ゼロとお教えいただくのです。
すべてのものは因縁和合して仮に存在しているだけであって、本来は空・ゼロ。ゼロが当たり前。ところが私たちの価値観は逆転しています。いま私が存在しているのが当たり前、生きているのが当たり前。昨日から今日への延長線上に明日があると思いこんでいます。口先だけは「世の中、一寸先は闇だ」と言っていますが…。
したがって、明日もいのちがあるのは当たり前と信じています。本来ゼロの教えからすれば、明日の朝目が開かなくても当たり前。朝目覚めたら、本来ゼロの私が存在し得たことに気づいたらまさに「有り難き」幸せなのです。そこにはすべてのご縁・ご恩に対する謝念の意(こころ)が沸いてきて、自ずと「有り難いことです」の言葉が出てきましょう。真の意味の「当たり前」に裏打ちされた「有り難う」を今一度考えてみたいものです。
「まさに願わくは、此の功徳をもって普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」
これを解説しますと、昔、大通智勝仏という仏様が、菩提樹の下で悟りを開かれました。その大通智勝仏には十六人の子供がありました。子供たちは、父親が悟りを開かれたというので早速に駆けつけて、御祝いをするとともに、その悟りの内容をお説き下さるようお願いをしました。また、仏が悟りを開かれたことによって、世の中が光に満ちあふれたので、「これは何事か。」と梵天というインドの神々が各地から集まって来て、仏様に道を説かれる様に要請しました。「仏様がこの世に出現されるまではこの世界は真っ暗闇で、悪い者がはびこっていました。人々も皆悪い道に落ちてしまい、苦しみ悩んでいました。ところが、今、仏様がこの世に出現され、私たちの喜びは限りないものです。どうか、悟りで得られたその功徳をすべての者に及ぼされ、我々も他の人々も皆共に仏の道に入らせて欲しい。」という切実な願いであります。
リアル
コロたんの
お墓参り
左に墓誌があるのですが
あえて見せず
家紋は丸に違い鷹の羽
黄色い薔薇??
カーネーション??
今の仏花は洋花を問わず
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