ここから先を読みたい方は、相当の覚悟をしておいたほうが良いでしょう。
特に沖縄戦や原爆、東京大空襲の被害者が身近にいる方は、怒りで血管を爆発させないように注意してください。
真珠湾攻撃前日(ワシントン時間の12月6日)、日本外務省はワシントンにある日本大使館に「宣戦布告」の文章を暗号にして送りました。
この文章は14章に分かれ、「明日の午後1時にアメリカ側に渡せ」と書いてあったのです。
暗号ですから、大使館員は解読してタイプライターで入力しなければいけない義務を負っていました。
しかし、こんな大事な文章をほったらかしにして、大使館員は全員大使館を引き払ってしまったのです。
では、大使館員はこんな大事なときにいったい何をしていたのでしょう。
当日は寺崎英成(昭和天皇独白録の著者)が転勤するので、送別会に出席していたのです。
夜遅くまで送別会で飲み、食べ、彼らは楽しい一晩を過ごしたのだと思います。
しかし、その「楽しい一晩」は、将来の日本に大きな打撃をもたらしてしまったのです。
翌朝大使館員が出勤したとき、ドアに紙の束を見つけてしまいました。
その紙の束こそが、前日のうちに解読しておかなければいけない「宣戦布告」の文章でした。
あわてて大使館員を呼び出し、解読作業に取りかかってもらおうとしたのです。
しかし、大使館員は前夜の飲み会で酔っていたので、とうていまともな作業が出来るはずもない状態でした。
さらに午後1時が迫ったあせりから、文章をタイプするのが遅れてしまったのです。
当然午後1時には間に合わない状態でした。
ここで大使館員が電話などで宣戦布告をすれば、アメリカ側に「奇襲攻撃」と言われるようなことはなかったと思います。
しかし、大使館員は学校の授業のような「答えのある問題」は出来ても、臨機応変性のない集団でした。
ハル国務長官に、「1時間約束をのばしてほしい」と電話で頼んでしまったのです。
結局宣戦布告の文章が届いたのが午後2時20分。
真珠湾では日本軍の攻撃が始まり、アメリカ軍の戦艦が炎上して沈没していたのです。
アメリカはこの出来事を口実に「リメンバー・パール・ハーバー」(真珠湾を忘れるな)を合い言葉に戦争に参加してしまったのです。
現在でも、アメリカは日本に対して「だまし討ちをする卑怯な民族だ」という感情を持っている人がたくさんいます。
では、日本にこんな汚名を着せるもとになった大使館員は、その後どうなったでしょう。
これだけの大罪を犯したのですから、普通ならやめなければならないでしょう。
しかし、彼らは真珠湾攻撃前夜のことを秘密にして、誰にも話しませんでした。
そして、戦後外務省の最高ポストである事務次官などになった人もいるのです。
中には天皇から「勲一等」(ちなみに東京大空襲と原爆投下の首謀者であるカーチス・ルメイがもらった勲章です)をもらった人までいるのです。
ちなみに真珠湾攻撃で宣戦布告が遅れた理由については、他にもいろんな説があります。
例えば、「日本は奇襲効果を高めるために、わざと宣戦布告を遅らせた」という説や、「送別会ではなく、葬式に出かけていて遅れた」という説もあります。
また、当時の世界では宣戦布告は義務づけられていませんでした。
現にアメリカも、今まで200回戦争した中で宣戦布告したのは5回程度でした。
また、第2次世界大戦が始まったとき、ナチス・ドイツは宣戦布告を後になって行っています。
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